2005年度は、らん丈にとっては、学修環境が劇的といえるほどに変化します。
文京学院大学生涯学習センターの講師(詳細は「らん丈後援会会報」第24号参照)、立教大学社会学部と東京農工大学農学部のゲストスピーカーを勤めるほかに、3度目の学生生活を早稲田大学で送ることが、決まりました。
相当数の大学受験生は、社会科学系、なかでも法(律)学と並んで人気を二分する経済学・経営学・商学関係の学部に進学することになるでしょう。すると、経済学は必須の科目となります。
そこで今回は、経済学の本を取り上げることにしました。といっても学術書ではないので、決して難しい内容ではありません。
本書は、赫々たる学歴(京大理学部数学科卒業、阪大大学院経済学研究科・東大大学院法学政治学研究科修了、ミシガン大大学院・M.I.T.大学院・ハーバード大大学院に留学)を持ちながら、アカデミズムとは一線を画し続ける在野の研究者、小室直樹の著作です。
本書は副題に、「経済思想ゼミナール」と銘打たれていることからも分かるように、経済学の先蹤を担ったトマス・ホッブズとジョン・ロックから法学者、川島武宜に至る、16人の『経済学をめぐる巨匠たち』を採り上げた、粗笨ではありますが魅力に富んだ、経済思想史を概観する書となっています。
ここで粗笨といったのは、小室の思考を指すのではなく、誤植を見逃す本つくり(P.107「セイの法則」の説明で、「需要はその供給を作る」という記述がありましたが、もちろんこの“需要”と“供給”は逆)と、繰り返しを多用する小室の言い回し、出典を明らかにしない小室の引用の3点に由来します。
しかし本書の魅力は、物事を一言で剔抉することができる知性に富んだ小室の断言、にあります。
それは、前出のセイの法則を例に取れば、“古典派とは、セイの法則を公理とする学派の事を言う。「新古典派」だとか「新々古典派」だとかの曖昧な用語は一切使用しない。だから、マネタリストは勿論、ルーカス博士等の合理的期待形成学派等も、総て古典派に含まれる。”
このような記述は、まさに小室の真骨頂です。
あるいは、本書の劈頭にある“経済学の扱う対象は唯一つ「近代資本主義」だけである”のように、言われてみれば当然なのにもかかわらず、このようなことをスパッといえる経済学者が、実はさほど多くはいないことを、ぼくは知っています。
また、「クラウディング・アウト」を小室はこのように、説明します。
“ケインズの「有効需要の原理」も又、万全ではなかった。王座奪還を賭けて研究を重ねた古典派は「クラウディング・アウト(締め出し)」を発見したのである。”と。
「クラウディング・アウト」を、これほどまでに直截簡明に説明した文章は、過去に読んだことがありませんでした。
そして、小室はこのように言い放つ。
“資本主義風ではあるが、社会主義的であり、封建社会然としている。これらの要素をない混ぜにした「鵺経済」―それが日本経済の実態である。”と。
また、マルクス経済学では不可欠の用語「疎外」を、小室はこのように、規定する。
“「疎外」とはずばり「社会現象には法則性が在る」という事である。”と。
これもまた鮮やかな、定義です。
そのマルクスでいえば、小室はこのように、言う。
“マルクスは、「最大多数の最大幸福」が”達成されると”革命が起きるのではなく、”達成されたとしても”革命が起こると語った。”
これが先述の、“出典を明らかにしない小室の引用”なのです。上記のようにマルクスが語ったのは、どんな書物のどこなのか、小室は明らかにしないので、専門家でないかぎり、原典のどこにその発言があるのか、確かめようがないのです。
ただ、確かめようがなくても、なるほど、と思わせる指摘が随所にあることが、本書を読む楽しみとなっています。
たとえば、Ph.D.(哲学博士)の説明で、“坊主と医者と法律家以外は皆「Ph.D.」”とは、なるほどと思わせられましたし、「無能教授の効能」にも深く首肯したのでした。
けれど、“ラインハルト・ベンディクスに依れば「ヴェーバー」は学び始めてから二五年目くらいからやっと分かり始めるであろうと言われている。”との箇所を読んだ高校生は、社会学部への受験を控えることになるのではないかと、密かに恐れてしまうのです。
最後に、小室の恩師のひとりサムエルソンを扱った章で、“優秀な学者は経済理論を、その次に優秀な学者は計量経済学を、それが難しい学者は実証研究をコツコツ遣る”との言辞にこそ、他ならぬ小室の真面目を見る思いがしたのです。
なお本書は、月刊「経Kei」に2001年11月号から2003年10月号まで2年間にわたって連載されたものに、大幅な加筆をした後に刊行したもので、連載当時、読者アンケートで人気ナンバーワンの座を獲得していました。