【箇所】早稲田大学 社会科学部 専門科目
【科目】社会科学方法論[4単位]参考書
【担当】田村 正勝〈早稲田大学 社会科学総合学術院〉教授
1、要約
1)哲学と社会科学の課題
人類は、西洋において通常使われる*時代区分において、古代、中世、(近世)、近代を経て、いまや現代へと至ったのであるが、その間、当然のことながら時代区分毎の、実に多くの時間相を経験した。
*以下、小稿における時代区分はすべて、上記のとおり西洋における時間軸によるものとする。
近代以降の人類にとって、たとえば戦争や世界恐慌などは、社会科学が密接に関係した事象である。
このような歴史の流れを形成したその根源に、哲学としての社会科学がある。
この哲学や社会科学の思想の源泉は、古代にまで遡ることができる。
その後、中世においては社会の頂点に神が君臨していたことによって、世は統べられていた。
ところが近代に至り、人類は神の呪縛から解放されたことにより、新たなる「時代の中心概念」が生まれた。
それは、18世紀においては「国家」であり、19世紀は「社会」となり、20世紀には「自然」に移行したと、いえよう。
こうして、中世社会から近代社会への移行にともなって、人間が人間を支配することから、自然を支配することへと、人間の衝動の方向が転換された。
この衝動の方向転換によって、近代的科学技術が発展したのである。
こうして、近代に至り神の呪縛から解放されると、2つの世界観が対立するようになった。
対立した2つの世界観とは、マテリアリズムとイデアリズムとであり、それは人間の思考パターンのうち最も包括的でかつ典型的なものである。
しかし、これらは私たちの課題に対しては、完全な回答を用意したものとはなっていない。その理由は、マテリアリズムもイデアリズムも、人間中心主義的世界観に陥り、自然破壊を助長する要因を持っているからである。
それが故に、哲学と社会科学との課題は、この対立する社会観を止揚することにある。
そのために、哲学と社会科学とは何をすることによって人類に貢献できるであろうか。
人間把握に関する限り哲学と社会科学との対立は、実在する人間の本来のあり方の中で、すでに止揚されているはずである。
したがって、私たちは思想とは何か、なぜ世界観に関してイズムの対立が生じるのか、対立の根拠と内容とは何か、を捉えなければならない。
次に、今日の合理主義的実証主義的社会科学に関して、これが人間の思考の限定された部分であることを明白にし、これを人間の思想や歴史の中に正しく位置づけし直す必要がある。
そして、こうした反省は人間中心的思考へつながるということを認識し、人間と自然の正しい関係を捉え、これを推進する思想的基盤と社会の在り方をも問わなければならない。
先述したように、「時代の中心概念」とは、すべての時代に存在し、その時代に生きる人々に対して強く影響を与える現象ないし事柄をいう。
それは、20世紀においては「自然」であると捉えることができる。
その理由は、20世紀における科学技術の発展によって、人間が自然を支配かつ操作し、その上自然ですら、自ら作り出すことが可能となったからである。
ところで、この「自然」という中心概念の内容は、20世紀初頭と現在とでは大きく異なっていることに着目したい。
20世紀初頭における一般的自然とは、「人間に解釈される自然」であり、それは「自然に習った人間行動」、「自然史」という考え方を基調としていた。
つまり、人間社会を自然の一部として捉えていたのである。しかしながら、自然界には存在しなかった物質を人工的に作るようになると、人間社会が自然の中心になっていき、「自然の人間史」という概念が新たなる基調とされるようになった。
このような自然と人間との関係の変遷は、私達の歴史の中において明白に見て取れるのである。こうして、私たちは自然形成過程の本質的役割を引き受けることになったのである。
次に、人間の自然観の変遷について触れる。
古代から中世後期(15世紀)における人間の自然観は、「人類とは、生まれ、成長し、消滅する存在である」という考えを基調とし、「有機体的自然観」の立場をとって自然を解釈するというものであった。
つまり、人間こそすべての主体であり、客観性を持つものであって、この有機体を尺度として自然も捉えられてきた。
それが、16世紀以降の絶対主義時代になると、物理的自然の研究や力学的な法則が明らかになってきた。
そのために、「自然は同質的な物質のメカニカルな集合であり、その集合のあり方によって力が生ずる」という「機械的論自然観」へと、人間の自然観は変遷した。
その結果、人間の組織も機械的に捉えられることになり、人間の感性までもが、そうした機械的実体の一要素に過ぎないと考えられるようになってきた。
また、こうした機械論的自然観に基づいて、「無機的価値中立的技術観」が生じたのである。
20世紀にはいると、人間はまったく新しい自然のプロセスや構造を合成できるようになり、19世紀までの「機械論的自然観」は、「合成的自然観」へと転換した。
技術観においても、合成的自然の創造を目的とする「合成的自然観」へと変化した。
さらに、人間による自然への介入は、自然界の重要な核をなしている生態学的な均衡と調和するものでなければならないという、「生態学的技術観」も生じた。
このような観念が創生されたのは、技術によって文化さえも創造することができるという思想が人類に芽生え、共有されるようになった反映としてもたらされたのである。
現代社会は、「技術社会」といえる。
「技術社会」が進展すればするほど、私たちは、科学技術が直接的にもたらす諸問題や、「技術社会」による多くの弊害も次第に強く認識されるようになる。それらを概括的に整理すると、「技術社会化」の問題は、以下の4つに分けられる。
第1の問題は、近代科学技術は自然環境を破壊し、大気汚染、水質汚染、土壌汚染をもたらすものであり、さらにそれらはより包括的な問題として、自然の生態系の撹乱へとつながっていることである。
第2の問題は、科学技術の支配性におけることである。
この問題点は、ひとつには人間が人間を支配するための道具として科学技術が位置づけられてしまう点、もうひとつには人間を科学技術が直接支配する点が挙げられる。
第3の問題は、私達の思考形態や思考過程を科学技術が左右し、自然や人間について私たちの認識を変容させることである。また、技術発展は経済成長や社会の動体化の志向を促進してきたが、これらにともなう弊害も考えられる。
第4の問題は、これまで触れた諸々の批判点を総合的に「阻害論」の立場から捉えると、科学技術と人間疎外との緊密な関係を指摘することができることである。
前述したように、私たちは今日の人間と自然との関係を、批判的に見てきた。
そこで、私たちは自然と人間との本質的なパートナーシップを、根源的かつ歴史的に解明しなければならない。この問いは、「自然とは何か」と「人間とは何か」という根本問題に起因している。
ギリシャにおける自然観は、自然は一切を包摂するものであり、この包括性をもって最大の特徴とする。
別の視点からみると、ギリシャの自然観は、この包括的自然の中で、ここでの運動体が自己自身で育成し、また運動するという自然の育成性ならびに変換性によって特徴づけられる。そして、この個々の運動体の自己運動が包括的自然の完全性に由来すると考えられる点にこそ、ギリシャの自然観の特質がある。
また、プラトンからアウグスティヌス、パスカルへと変遷し、ヘーゲルの哲学を生んだ思想として、人間だけが神の似姿であり、それゆえ自然を救済するという考え方がある。
これは、人間と自然の本質を神聖なものとして捉え、人間の行為を通じて人間もこの本質に接近していくというものである。
しかし、このような思想は、一方で人間中心の自然観や人間の絶対視につながる傾向も秘めている。要するに、自然は人間のためのものであるのだから、「人間のために自然を組み替えることは善である」という思想が、新たに生まれてくることになる。この「人間中心主義思想」は、古代ローマ時代後期に生まれたものである。したがって、当然のことながらこの思想は、中世キリスト教社会の思想とは相反するものである。
西洋社会が中世から抜け出し、何よりも人間の悟性に信頼を置き、神の呪縛からの開放を目指したルネッサンス期に至り、この「人間中心主義思想」は再登場し、人間の尊厳性の主張となった。
近代社会の進展に伴い、合理主義思想のもとで機械論的世界観が支配的となってきたが、実際はそのような機械論的自然の世界の中へ私たちが落ち込み、その奴隷となり、工業化や技術社会化を促進しているのである。こうして、もはや人間の主体性は見られなくなってしまうのである。
フッサールやハイデガーは、こうした傾向に対する徹底的な反省をして、神なき時代の主体性の形而上学を樹立した。
しかし、社会の技術化がますます進展した結果、この主体性の形而上学に矛盾や誤りが生じてきた。そこで私たちは、自然および自然と人間との関係を根本的に理解しなくてはならないことになる。では、それはいったいどういうものであろうか。自然と人間とは、必然と自由とが相互に媒介しあって世界を構築しているものであるから、世界の中心は人間でも自然でもあるのと同時に、人間でも自然でもないと結論づけることができる。
それゆえ、真の主体性とは、人間中心主義の視点から自然を支配するような近代的なものではない。自然と人間の相互依存関係を進化させることこそが主体性の真の課題である。
それでは、私たちは何を行えばよいのであろうか。それは、私たちが「自然のために」自然をよりよく維持していくことであり、自然性に適した生き生きとした自然を発展させる工夫をすることである。
私たちの中に自然性が宿り、人間と自然とが本来的な親和関係を結ぶことによってはじめてこれは可能となる。ここで「正しい技術」のあり方が、方向付けられることになる。また、このような自然の理解から必然的に私たちの倫理観も導かれる。
それは、人間中心主義の克服である。つまり、私たちは全人類のみならず、全生物、全世界を考慮しなければ「人間の自然性への道」は、決して開かれないのである。
2)技術の文化哲学
近代の根本的特質のひとつに、近代的科学技術が挙げられるが、ここでの「技術」とは何かという根本的な問いに対して、充分な回答が出されたことは実は一度もない。しかし、この科学技術こそが、私たちの時代を支配する決定的要因のひとつであることに疑いを挟む余地はない。
このことは広く共有された認識であり、技術に対する積極的な評価がなされる一方他方では、正反対の否定的な評価も与えられており、科学技術をめぐる評価は二分されているのが現状である。
ところで、前近代における「技術」は、きわめて広い内容を包摂し、またいわゆる「技術」と「芸術」という区別もなかった。
しかし、近代になると技術は、自然を人間に役立つものに変形させ、それによって人間が自分の隠された力、可能性、自由を引き出すことができる、といった性質を帯びてきた。結局、技術の基準は効用もしくは有効性であり、芸術の基準は心理あるいは美だという具合に、両者は近代になって明確に区別されるようになった。
また、呪術は一見近代技術とは無関係と思われるが、実はそうではない。呪術と技術との類似点は、一定の目的のために自然を利用することである。強い感情、特に社会化された共通感情という点にも類似点は見出せる。ただし、感情はそのままでは技術を生み出すことができない。つまり、呪術的世界の根本となる感情は合理的ではないが、技術を生み出す感情は、「構想力」という合理的な要素が加わった感情である。では、この「構想力」とは何であろうか。それは、私たちの根本的な機能であり、自然の必然性の認識にとっても欠くべからざるものである。そしてまた、技術の根底をなすものでもある。
それでは、技術とは何であろうか。技術は自然と人間の精神、そして人間の共同社会の3つが巧妙に統合されることによってはじめて成立するものである。逆に言えば、これら3つの要素をそれぞれの所を得さ占めて統合させるのが、技術に他ならない。したがって、技術は目的への単なる手段ではなく、客観的な自然法則を一定の目的のために利用をし、その意義は、主観的な目的と客観的な自然との統合を行うことにある。
つまり、自然の因果法則と人間主体の目的合理性とを統合するのが、技術である。技術の多くは、道具的技術から機械的技術へと発展してきた。しかし、近代における機械的技術の発展と、これに伴う人間の自己拘束はすでに明らかであり、決して技術の本質的機能によるものではない。いまだ技術の本質は理解されず、その原因は、誤った発展の仕方をした技術そのものに理由がある。
技術が発展するに従って発明される道徳が、ある。それは以下の4つの責任であると考えられる。
1、技術に対する責任。
2、自然に対する責任。
3、人間共同生活に対する責任。
4、自分自身に対する責任である。
今日の私たちへの最大の課題は、技術による人間疎外の克服と合理主義の宿命的過程の超克である。私たちはここに、悪しき近代の潮流を食い止め、自然と人間とのパートナーシップを進化させ、自然と人間の共同体を形成しなければならない。こうした方向へ技術のあり方を転換させ、そのような社会生活のあり方を構築しなければならない。これこそが、過去と未来とを包摂した人間共同生活と自己自身とに対する、私たちの責任である。
私たちはこのように大きく困難な課題を、直ちに検討しなければならない。また、すでにそうした反省や正しい方向を提言する試みが、様々な面から始まっている。
その中でも「もう一つの技術論」は、特筆すべきものである。この「もう一つの技術論」には、技術の目指すべき方向として、
第1に、技能的に可能なものは何でも作る思想の否定、
第2に、感覚的に把握しうる技術、いわば「技術の透明性」、
そして第3に、自然調和的技術、すなわち「美しい技術」が論じられている。
また、技術だけでなく、政治や経済、社会構造を変革する必要がある。政治の分野では、政治的主権の見直しと中央集権政治から地方分権への転換とその推進、また、正しい倫理観に基づいた政治体制を築く必要がある。
経済の領域では、先進工業国の経済成長思想の放棄と自由市場原理とに基づく競争経済を修正して、共存のための共同体経済へ転換すべきである。
社会・文化面においては、社会の最小単位としての家庭を核として、地域社会や地域文化の育成、常に世界に目を向ける連帯責任の原理、そして、自由時間を自然のためや共同生活のために使うことが、挙げられる。
つまり、私たちは自然性を伸張しうる社会生活を営み、多中心的世界観に立ち、美しい生活を目ざさなければならないのである。
3)国家と民主主義
今日の社会の基本的特質として、「組織化された大衆民主主義」を挙げることができる。
この背後には、社会の多元化現象、すなわち社会が価値観を異にする多くの集団に分裂している傾向があり、この傾向は組織化された大衆民主主義の推進によってさらに促進されてきた。しかし、この大衆民主主義に対してE・ヴィラールは、これらは次第に「宗教民主主義」となってきたと主張した。また、W・エルベも大衆民主主義が「規格化された同形性」を追求し、自由を次第に失っていくと主張した。
これとは別に、民主主義のいわば形相たる政党、もしくは政党民主主義に向けられた批判も多い。このような状況を打開するために、政治倫理や教育に対する様々な考え方が存在する。
私たちが今日の大衆民主主義の問題をより深く考察するためには、「民主主義とは何か」、「国家とは何か」、そして、それらと関連して「自由とか平等といった価値がどのような意味を持っているのか」を、根本的に検討しなければならない。なぜなら、民主主義と自由主義を正しく統合しうる道を解明することが必要だからである。
民主主義の起源は古代ギリシャの都市国家、ポリスである。ポリス内での生活は、根本的に慣習法であるノモスに基づいていた。しかし、ポリスの衰退とともに、ソフィストたちはノモスの絶対性を否定し、立身出世のための政治家術を主張した。これに対してプラトンは、先ず「完全な国家の監視人達による国家」、このイデアの倫理的命令による国家、つまり貴族政体や哲人王による君主国家を主張した。
一方、アリストテレスはプラトン同様、国家の本質をイデア的全体的なものとして捉えたが、寡頭政治と民主政治の混合政体が最良だと主張した。このように、古代ギリシャ・ローマ時代は、政治が社会の支配的要因であったから、古代を政治時代ということができる。
これに対して中世は、何よりもキリスト教が支配する時代であり、宗教の時代であるといえる。
この時代に国家の正当性を根拠づけたのは神学である。『神の国』を著したアウグスティヌスの神学は、地上の国家を王権神授説のもとで成立させたものであり、絶対的な神の国をもって、地上の国を正当化すると同時に限界づけた。この意味で、超越論的存在論的な国家観といえる。
それに対して、ルターの思想は、アウグスティヌスの思想をさらにラディカルにして、究極的には地上の国を否定したと言えるが、現実としては地上の国についても語らざるを得なかった。
そして、実際的にはさらに国家制度の自律性が促進された。
近代に入ると、N・マキアヴェリは『君主論』の中で強力な権力国家を説いた。その中で彼は、支配者は国家理性の体現者でなければならないと主張している。
ルネッサンス期の進展とともに、次第に人間理性が謳われ、人々が宗教から解放されて自由を得ることが可能となった。これに伴い経済的発展も促進され、それがさらにいっそうの自由を追及する結果となった。そして、人々は自分たちの個人的自由すなわち福祉を補償する国家は、理性的に「社会契約」によって形成するという思想が出現した。
Th・ホッブスは「自然権」を、J・ロックは「自由主義的民主主義」を、そして、J・J・ルソーは「国民主権に基づいたラディカルな民主制」を説いた。
イギリスやフランスではこうした思想に影響され、次第に絶対君主制に制限が加えられ、法に基づいた支配や市民参加さえも謳われるようになった。一方、ドイツではカントを中心とした思想家たちが道徳性と合法性を説き、「人倫国家」の思想が生まれた。
さて、近代国家における発展は、自由主義的民主主義的政治制度の確立と資本主義的経済の推進を二本立てとしたが、それはプロレタリアートの出現と階級対立を促進するものであった。こうした歴史的状況から、近代的国家と自由主義的民主主義を否定する思想が出現した。
K・マルクスとF・エンゲルスは、時間的空間的に限定された人間の解放つまりプロレタリアートの解放こそが、最終的な人類の解放だと考え、この解放のために国家を否定した。W・I・レーニンは、「プロレタリアート独裁」を主張し、社会主義的民主主義国家を承認すべきだと説いた。
一方、M・ウェーバーは主に官僚政治の観点から、社会主義思想の性格を見通したために、社会主義に反対した。しかし、同時に自由主義的民主主義思想が、歴史的な試練に耐えられないことも洞察していた。このような認識から彼は、「社会民主主義」の思想を主張した。
また、C・シュミットは、民主主義と自由主義とは本来的に対立する概念だと捉え、純粋な民主主義を擁護するために、現実の民主主義に混在している自由主義を除去することを主張した。
以上の主張を踏まえ、国家が国家として正しく機能し存続するためには、現実の国家が常に目指すべき国家理念が不可欠であることがわかる。そして、この国家理念は個人を超越した実態を根拠とする存在的理念であるべきだと考えられる。こうした論理は、民主主義の理念にも同じく妥当する。また、民主主義は社会の構成員を超越した社会が実態的に存在することを前提とし、この普遍的な社会の普遍意思なしには成立しない。つまり、実践理性の要求を媒介としてのみ民主主義が実現しうるのである。
民主主義は根本的に社会共同体の同質性理念に基づくものであり、自由主義は個人的な社会の異質性に基づくものである。よって、両者は矛盾する。ゆえに、この両者の両立は困難である。このことを認識した上で、私たちは両者の統合を如何に達成すべきかを問わなければならない。
このような組織化された大衆民主主義が根本原因となって起こっている公共体の財政赤字の解決策も、両者を両立させることによって達成できるのである。では、この自由主義的民主主義のありうるべき本来のあり方はいかなるものか。それは、人々が個人として自由に行動し、独自の意思を持ちながらも、他方で普遍意思とは何かを考慮しながら行動することである。これが自由主義的民主主義の在りうべき本来の在り方である。では、この普遍意思、すなわち公共善をいかにして求めることができるか。
第一にすべての人々が、超個人的な社会の実体的な意思があることを承諾しなければならない。
第二に政治倫理は、決して単なる責任倫理であってはならない。
第三に基本的な公共善の理念は、十分な歴史認識をともなわなければならない。
そして最後に、「協議会民主主義」ならびに、「審議会民主主義」の推進を強調しなければならない。
また、「実力を法に、恐怖を尊敬に、強制を同意に変形させる」というA・P・ダントレーブの把握において、我々は国家の本質的機能を理解することが出来る。共同生活における共通の目的を遂行するために、自らを服従させる国家構成員の合意こそ、国家存立の条件である。
2、論評
人間と自然との関係は近代に入って変化してしまい、それを否定的に捉える筆者の意見は、今や人類に広く共有されつつある、というのが私の実感であり、私はそれに当然のことながら同意するものである。
それでは私たち人類は、自然との関係をどのように修復していったらよいのであろうか。
筆者はそれへの回答として、「人間中心主義」の克服を提示している。それに加えて、人類と自然との共同体を形成する手段が、「技術」だと考える。
私も意見を同じくするものであるが、ここでは筆者の意見を冷静に、現実的に考えてみたい。
私たちは20世紀初頭から今日に至るまで、近代技術を不断に発展させてきて、その恩恵を受けて生活している。
その利便を私たちが簡単に捨てることは、ほぼ不可能である。その理由として、実に多くの事例を挙げることができるが、たとえば、ボタンを押せば風呂が沸く生活から、薪割りをし、その薪を燃やして風呂を沸かす生活への回帰をほとんどの人が受け入れられないことからも、それは伺い知ることができる。
それでは、少し考え方を変えて、自然とうまく共同体を作れるような、いわば自然にやさしい技術を発明するべきなのかもしれない。それは確かに理想的ではあるが、おそらく不可能であろう。
たしかに今日では、地球に優しい、自然に負担をかけない技術が各企業で研究、開発されている。
トヨタ自動車のハイブリッド自動車プリウスなどはその典型であろう。また、屋久島では、水力発電から水素を取り出し、その水素で燃料電池自動車を動かす壮大な実験を行っている。
しかしこれは、経済的、技術的に余裕のある先進国が、自分たちの生活水準を落とすことなく、地球に優しい技術を開発しているに過ぎないのではないだろうか。
それが証拠に、せっかく排気ガスを上記の自動車によって減らすことができても、リバウンド現象により、むしろ、排気ガスが総体としては増えてしまう、という現象も見られる。
また発展途上国では、そもそもこのような技術を開発するインセンティブがない。たとえば、電気もない地域では、電気ポンプの井戸よりも、昔の汲み上げ方式の井戸の方が歓迎されるように、その地域事情にあったローテクの技術がより一層歓迎され、必要とされる。
つまり、このような新しい技術を導入した製品はコストが割高であるとともに、その地域に本当に必要な技術であるかどうかの判断は、その地域にしかできない。
一方、開発途上国が、性急な工業化を進めると、木材の伐採による砂漠化の促進や、化石燃料の使用によるCO2の排出問題などが顕在化し、環境破壊を進めることになる。しかしそれでもなお、開発途上国としては、今まで先進国の技術が環境を破壊してきたのだから、私たちが先進技術を使い出すことによって環境を悪化させても、それは当然の権利であると主張することになるだろう。
先進国は、エイズ薬などに見られるように、特許を取得することによって価格を吊り上げた薬品をつくり、開発途上国の貧困層には行き渡らないようにし、かえってエイズを蔓延させる結果を招いているとの主張もみられる。
それでは、私たち人類は自然と共同体を形成するような技術を開発し、それを先進国はもとより開発途上国も含めて、すべての人類に普及させることは不可能なのであろうか。
私は可能であるという希望を持つ。それを実現させるために、先進国と発展途上国との富、技術などの格差を少しでも埋めるように、先進国こそが努力する必要があると私は考える。そのためには、開発途上国への技術移転(本当に必要な技術の移転。たとえば、電気もない地域へ電気ポンプを移転してもなにも解決しない)をするとともに、開発途上国の人材を育成する必要があると考える。
それは食料援助等の一過性のものではなく、開発途上国が自分で今後自国を発展させることができるような、永続的な援助をする必要があると考える。
これは理想の追求であり、実現には大きな困難が伴うであろうことは容易に予想される。
しかしこれこそが、自然と人類とが共存していくという、最良の関係を作り出す現実的な考えであると私は考える。