町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

太宰 治『魚服記』〜『晩年』よりらん読日記

2006.11.27(月)

〔執筆事情〕
 『魚服記』は、太宰が同人誌「海豹」に加わるために提出した作品である。発表は昭和8年3月号の同誌創刊号であるが、制作の時期は明らかではない。
 なお本作品は、同誌同人今官一に太宰が同人に勧誘された際、提出した作品であることから、太宰にとっては、相当の自信作であったことが容易に推測される。
 それを裏付けるように、本作品は同誌に、太宰自身によってていねいに墨書されて提出されており、これを見た木山捷平、古谷綱武らの同人諸氏は驚倒し、すぐに同人入りは許された、とのことである。

〔タイトル〕
 魚服ではなく、魚腹でならば、“魚腹に葬らる”という言葉が「屈原『楚辞』−懐沙賦」にあるそうで、それによれば、海や川で水死するたとえ、ということであり、端的に言えば、魚の腹であり、その中を指す。

〔モチーフ〕
 太宰は、4度にわたって自殺を試み、5度目にして本願を遂げることが出来たという経歴の持ち主である。
 その際、投身を選択したのは、既遂となった玉川上水のみであるが、たとえば、『晩年』にある『葉』に、下記のような記述がある。

 満月の宵。光っては崩れ、うねっては崩れ、逆巻き、のた打つ浪のなかで互いに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意(わざ)と振り切ったとき女は忽ち浪に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった。

 これだけの記述であるが、『魚服記』との相似性はすぐに感得されよう。

 太宰が山崎富栄とともに玉川上水に入水したことは余りにも有名であるが、それに遡って、4度にわたる自殺未遂があった。

 これは太宰が自死に本気ではなかったために未遂に終わったのであり、それは予定された未遂だったのではないだろうか、という疑念が生じてしまう。

 結局上記のように、5度目の入水によって初めて太宰の自死は、完遂された。
 そこにあるのは、水に入ることによって自らの生命を絶つことへの太宰の焦がれるまでの、憧憬である。
 したがって、スワが水に飛び込み、水底にあることを自覚すると、「やたらむしょうにすっきりした」のである。

〔思春期小説としての『魚服記』〕
 八郎とともにスワを誘っていたものに、「植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生」がいる。
 その学生は、絶壁で羊歯類の採集をしている最中に、滝壷に落ちて亡くなる。その一部始終を「一番はっきりと見た」のは、他ならぬスワである。
 そこから後年、スワは羊歯類を眺めるごとに、「たった一人のともだち」である、滝壷に落ちて亡くなった学生を追想することになる。
 太宰は、スワの思春期を「すこし思案ぶかくなった」と表現する。
 思春期前は、「天気が良いとスワは裸身になって滝壷のすぐ近くまで泳いで行った。」のであるが、「滝の形はけっして同じでないということを見つけ」ることによって、スワは思春期に入り、物思うことを覚えるのである。

 思春期に入ったスワは、唐突に父親に向かって訊く、「おめえ、なにしに生きでるば。」
しかし、その答えは、「判らねじゃ。」なので、スワは「くたばった方あ、いいんだに。」と言ってのける。
 ここにこの小説の主題が、集約される。
 外界を遮断してひたすら自己の内部世界にのめり込むような青春は、いきつくところ、“人間はなぜ生きるのか”という問いへと昇華される。
 しかし、これは誰にも答えることはできない問いでもある。
 正しく「判らねじゃ。」なのである。
 そしてこの問いは、太宰自身の問いでもある。
 それへの回答が、太宰の入水だったのではないか。
 それに託されて、スワは自ら滝へと飛び込む。
 滝に身を投じたスワは、小さな鮒へと変身する。
 その小さな鮒は、「やがてからだをくねらせながらまっすぐに滝壷へむかって行った。」挙句、「くるくると木の葉のように吸いこまれ」、二重の水死を遂げることになる。

〔最後に〕
 こうして見ると『魚服記』は、近代的リアリズムによる描写では成立しえない小説のように思われる。
 そのために、説話的手法が採用され、その手法を採ったがために、危うさを秘めながらも辛うじて成立することができたのではないか。

《参考文献》長谷川泉・長野甞一編『日本の説話 第6巻 近代』所収 鳥居邦朗(武蔵大学名誉教授)「太宰治」−『魚服記』を中心に−(東京美術、1974年)