町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

丸谷 才一・山崎 正和『日本語の21世紀のために』(文春新書)らん読日記

2008.08.30(土)

 ぼくにとって最も面白いと思う対談は、丸谷才一と山崎正和によるものですが、もはやお二人ともこの世の方でないのは、残念としかいいようがありません。
 このお二人は、じつに多くの対話を重ねてきましたが、そのお二人による、近代日本語の運命に対する関心を基調とした対話は、意外なことに本書に至るまで、ありませんでした。
 文字どおり、満を持しての対話であり、まことにもって面白い内容でした。
 とくに興味を惹かれたものを以下に箇条書きにしてみます。

装幀:坂田 政則

括弧内は、らん丈。
p.75  山崎正和 『万葉』から現代の若者言葉まで一貫しているのは、実に二音連結の伝統なんです。これは二音ずつがひと固まりになるという性格で、二音を二回繰り返すと四音になります。それに一字足しますと五音になります。二音連結は非常に滑りのいい言葉で、気分がどんどん先へ進むんですね。一音はそれを止める作用がありますので、五音というのはまとまります。
 次に二音を三つ繰り返して一音で止めると七になります。つまり五・七調、あるいは引っ繰り返して七・五調。五と七というシラブルが日本語の息づかいの基本になってるんです。

p.76 山崎 具体的に言いますと、「ガラス戸」という言葉がありますね。これを「ガラス・ド」と発音する日本人は、百人に一人もいない。ほとんどの人が「ガラ・スド」と発音しています。

p.94 丸谷才一 江戸時代の言葉づかいが持っていた洒落っ気とか面白さとかを捨てることによって、実利的近代日本はかろうじて成立した、という傾向があるでしょうね。

p.99 山崎 国語学は文法を教える。(中略)日本語学は、現象を忠実に記述し分析する学問ですから、変わったら変わったことが研究のスタートなんですね。
 たとえば、「うなぎ文」という言葉があります。これは国語学ではおよそ問題にしません。しかし、日本語学では「俺はうなぎだ」という表現を(食事の注文等で使いますが、それを)「うなぎ文」と称して、一つの表現カテゴリーとして認めるわけです。

p.109 丸谷 明治政府、あるいは近代日本が日本人に対して要求した言語能力というものは、伝達の道具としての言語能力を高めることだったわけです。しかし、思考の道具としての言語能力を高めなければならないとは考えなかった。

p.161 丸谷 一国語の文学史が、これだけ長く途切れなく続いている国(日本)は、ほかにありませんからね。たとえばギリシアなんて国は、専門の学者にとってはともかく、僕たち普通の読者にとっては、古代文学があって、あとは二十世紀文学がある、それだけですからね。

p.169 丸谷 村落的生活においては、意見をはっきり口に出して言うと、あれは喋喋しい人間であるといって嫌われるんです。すると、嫌われないで何か挨拶をするためには、できるだけ無内容なことを言わなきゃならない。

p.171  丸谷 伊藤博文は演説をするときに、まず自分で英語で原稿を書いたんですよ。彼はできるから、バーッと英語で書いて、それを秘書官に渡す。秘書官がそれを日本語の口語文に訳す。それが伊藤博文の議会演説なんですって。つまり、日本語では口語文というものが書けなかったわけ。

p.175 山崎 日本人は他の感性分野、創造力の分野では相当頑張っているが、結局、言葉がないということなんですね。

 以上、ごくごく一部を摘記いたしましたが、ご興味をお持ちになられた方は、是非原本をお読みください。
 なお、この対話の一部は、「文藝春秋」2002年9月臨時増刊『美しい日本語』に掲載されました。