1、はじめに
ごく大雑把に言えば、今年度の日本は年間の歳入がだいたい42兆円にすぎないのにもかかわらず、歳出が80兆円に達し、そのうち、40兆円が年金への給付にあてられています。
もちろん、給付される年金は社会保障基金から支出されるため、歳入される税収と年金の給付金との間に直接の相関関係があるわけではありません。
ともあれ事実として、歳入は42兆円であり、年金給付は40兆円に達しているのです。
また日本は、先進諸国の中では米国と並んで租税負担が最も低水準に抑えられている国です。
にもかかわらず、年金ひとつとってみたところで、高い給付水準が維持されています。つまり、数字のうえで日本は、アメリカ並みの低負担にしてスウェーデンに比肩しうる高福祉を実現していることになるのです。
ただ日本の特徴として、先進諸国の中では抜きん出て多い国内総固定資本形成を予算化していることが挙げられます。この「国内総固定資本形成」とは聞きなれない用語ですが、簡単に言えばハコモノや道路などの公共投資に費やされる予算のことであり、それが先進国の中では例外的に極めて多いことを示しています。
すると、“不要なハコモノは作るな”という声が高まるのですが、いまの日本の就業人口の1割を占める建設業は、公共事業を請け負うことで辛うじて営業を続けていられる企業が多数を占めている、とまでは言いませんが、公共事業目当ての建設業者がかなり多いというのが現実です。
ですから、公共事業を大幅に縮小すれば倒産する建設業者が多発し、失業率は急上昇することになるでしょう。
しかし、不要な企業は市場から撤退すれば創造的破壊がすすみ、むしろマクロ経済としては資するところが大きいと、歓迎する意見もあります。
上記のいずれの意見もGDP(国内総生産)の成長率をいかに確保するかが、デフレの解消ともあいまって、大きな眼目となっています。
GDPを伸張させる最も簡単で確実な施策が公共投資であることを思えば、上記の政策が採用されるのも納得できるというものです。
ところが現在の日本では、中央政府と地方政府あわせて700兆円に及ぶ巨額の累積赤字があるために、公債を発行して資金を調達する公共事業に頼る、安易なGDPの伸張は望めないのが、現状です。
つまり、なんでも行政に頼って問題を解決するのではなく、自助努力が求められるようになったのです。
2、環境整備にこそ求められる自助努力
たとえば現在の町田市は、1995年以降人口一人当たりの年間ごみ処理に概ね15,000円を費やしており、その総額は57億5,600万円にも達しています。
この場合、市民一人一人が、reduce(切り詰め)reuse(再使用)recycle(再資源化)refuse(〔過剰包装等の〕拒絶)につとめ、ごみの排出を抑えることを実現すれば、大幅なごみ処理費用の削減が見込めるのです。
事実、四国のある町(上勝町)ではごみを34種類に分別し、それを町で収集することはせずに、ごみ集積場に住民が自ら持ち込むようにしており、ごみ処理に関する経費を大胆に縮減しています。将来的にはごみ排出ゼロ=zero wasteを目指しており、それは、昨年の町議会で「ごみゼロ宣言」として全会一致で可決しているのだそうです。それが実現すれば、ごみ関連経費が劇的に縮小されることでしょう。
あるいは、安易な自動車の自家利用を避け、公共交通や自転車での移動を心掛ければ、大気汚染や交通渋滞が大幅に緩和されるのです。
それ以外でも、電力消費や水道使用の節約等を通じて、われわれが寄与できる環境維持は少なからずあるのです。
その結果、GDPの成長は望めなくても、環境に配慮した暮らしを続けることで、より豊かな生活が実現されるようになるのではないでしょうか。
その模範がヨーロッパ社会です。
たとえばフィレンツェには、ウフィツィという余りにも有名な美術館がありますが、これは16世紀のルネッサンス期に建造されたものです。それが、21世紀の今日でも使用されているのです。
つまり、建造されたのは5世紀前ですからGDPは5世紀間にわたって創出されてはいませんが、建物は立派に機能し、今でもフィレンツェの街に大いなる富をもたらし続けています。
翻って、東京の現状はどうでしょうか。scrap and build(=古いものを壊しては)新しいものを、作り続けています。その象徴が、東京都庁舎です。鳴り物入りで昭和30年代に建築しても、半世紀と持たず、新都庁舎をつくったのです。
新しい建物をつくれば、たしかにGDPは増えますが、それがはたして都民の生活全体を潤しているのかと問えば、大いなる疑問を覚えずにはいられません。
3、新たなる豊かさをもとめて
さて、GDPの増加を求めないということは、新しいものを増やさない生活を営むということでもあります。
ところが、それを声高に喧伝する政治家はいません。
それは取りも直さず、有権者に我慢を強いることになるからです。
政治家は、その後援者に効用を与えるような政策を実現させることで、支持を勝ち得てきたのですが、このことは従来の豊かな暮らしではなく、不便な暮らしを強いることになりますから、なかなか政治家の口からは言い出しにくいということがあるかもしれません。
しかし、今日の政治家に求められるのは、物質的な豊かさを追求することではなく、環境や生命倫理、精神世界という、モノ中心の考えに反旗を翻す世界にこそ、人間を幸せにさせる道がある、ということを有権者に説明し、納得させる能力を身につけること、ではないでしょうか。
それでこそ、accountability=説明責任を果たした、といえることになるでしょう。
つまり、環境という“ハコモノ”とは対極にある自然を、行政の重要な政策課題にのせることが、これからの政治に求められていると、私は考えています。