町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

『如水会講演会』摘録 「議員、落語家、一橋生の、三遊亭らん丈」らん丈の、落語歳時記

2011.10.01(土)

 2011年9月22日、東京都千代田区一ツ橋にある如水会館での、『如水会講演会』の講師を勤める栄に浴しました。如水会とは、一橋大学の校友会です。
 その講演の演題は、「議員、落語家、一橋生の、三遊亭らん丈」というもので、摘録が『如水会々報』平成23年12月号通巻974号に掲載され、それを再録してここに掲出しました。

1、はじめに
 如水会はその定款の4条に目的として、次のように記しています。「本会は、一橋大学の目的および使命の達成に協力し、わが国経済、社会文化の発展に寄与し、あわせて会員相互の親睦、知識の増進を図ることを目的とする。」

 この定款4条をみただけでも、如水会が凡百の校友会とは、その趣を異にしていること瞭然たるものがあります。当会は「知識の増進を図ること」が目的とされていますが、はたして私の講演でその目的が達成されるのか、はなはだ心許ないものがあり恐縮ですが、お時間ですので始めさせていただきます。

 如水会の淵源たる一橋大学とは、 いうまでもなく、国立大学を設置することを目的として、国立大学法人法の規定により設立された大学です。

 その大学に関して、『AERA』(朝日新聞出版)2011年10月3日号では、「大学は「愛校心」で選べ」という特集記事を掲載しており、そこで、「孤高の結束」と称されている、一橋大学の校友組織である如水会に、入会早々の新参者にこのような場を早速お与えいただいたことに、この場を借りて御礼申し上げますとともに、身の引き締まる思いで、講演と落語を勤めさせていただきましたことを先ずご報告させていただきます。

2、立教、早稲田そして一橋
 私は立教大学(文学部、経済学部)と早稲田大学(社会科学部、大学院社会科学研究科、大学院法学研究科)であわせて12年にわたって、学生として在籍していましたが、そんな者からみると、はじめて在籍する国立大学である一橋大学は、一種のワンダーランドです。

 たとえば、今夏、電力使用制限令が発令されましたが、その対象とされていると思われる一橋大学では、トイレの便座が真冬と同じように温められていました。私立大学では、電力使用制限令が発令されなくても、冬季以外には、便座が温められることはありません。一橋大学には、冷え性の方が多いのかしら。

 授業料に関しては、ぼくが在学していた早稲田大学大学院法学研究科修士課程の2010年度の授業料は、494,000円でしたが、在籍する一橋大学国際・公共政策大学院の2011年度のそれは、535,800円です。ただし、公平を期すために同じ公共政策を担う、早稲田大学大学院公共経営研究科の2011年度のそれと比較した場合には、2年制コース では、1,540,000円ですから、一概に一橋大学大学院の方が授業料が高い、とはいえないようです。

 ただし、早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程の年間授業料は、402,000円ですから、私立大学の授業料は、細分化されているのに比して、一橋大学では、法科大学院を除くと学部も大学院も同じ授業料なのですから、太っ腹な授業料設定であることは否めないようです。

3、私立大学と国公立大学(法人)の違い
 私学と国公立大学との相違は、多くの面で指摘することができ、その最たるものに、財政基盤の違いが挙げられます。あらためていうまでもなく、国公立大学には、私立大学より圧倒的に多額の税金が投入されています。こうして、国公立大学は、パブリックセクターであるため、その教育従事者を今でも教官とよぶ風習がみられますが、私立大学では教官とはよばず、教員といいます。

 それとともに、私学には建学の理念をキャンパスに反映させる大学が少なからずあることも指摘できるでしょう。

 立教でいえば、大正年間に築地から池袋に移転した際にそのキャンパスを、授業を受ける本館、祈りを捧げるチャペル、勉学に励む図書館、起居する寮、食事をとる食堂という学生生活の本分を担う施設を、キャンパスに有機的に配置させることで、信仰と勉学と生活の協働を体現させました。

 早稲田であれば、朝倉文夫によって銅像となった創始者大隈重信は、その名を冠した講堂をみつめていますが、大隈講堂は正門からわざとずらして建てられています。そのことにより、キャンパスを結界にさせ、世間から離れて学問に沈潜させる空間を現出させる意図をもたせたのです。

 このように、私大では、そのキャンパスのどこにどんな建築物を配置するかは、建学の理念に沿って決められることがあるのです。

 ところが、一橋大学のキャンパスにおける配置に、建学の理念がどのように反映されているのか、それがぼくにはよくわからないのです。

 たとえば、本館や附属図書館や講堂は、明確な指針のもとに、ほかでもないその場所に建てられたものと思われますが、その指針が後世にうまく伝わっていない憾みがあると思われるのです。

 その附属図書館は、私大の図書館とは、様相を異にしています。

 「法隆寺こそ日本の仏教建築の現存最古の実例であり、世界一古い木造建築である、ことを発見」 した伊東忠太の門下による、荘厳ともいえる造りもさることながら、2階の大閲覧室には、数多の胸像や肖像画が配置され、あたかも美術館に迷い込んだかのような錯覚にとらわれます。かほどに豪奢な図書館を、日本の私大でつくることはかなわないことです。

 システムの違いとして挙げられるのは、学生を信頼している図書館の寛大な姿勢です。

 たとえば、私大の図書館には随所に返本台があり、一度手に取った書籍は、元に戻すのではなく、返本台に戻すのを原則としています。そうせずに、一度手に取った書籍を学生にもどさせると、はたして以前あった本来の位置ではなく、あらぬ場所にもどされてしまうから、その予防措置として、返本台がもうけられているのです。また、貴重な雑誌を収めたスペースに入ろうとする際、早大中央図書館では、荷物はロッカーにいれることを強制されます。

 それにくらべて、一橋大学附属図書館では、雑誌棟になんなく入れるところが、画期的ですし、返本台もありません。このようなシステムは、学生を信頼しているからこそ、可能なのでしょう。

4、一橋大学出身の作家
 一橋大学は、社会科学系の学部、大学院(ただし、言語社会研究科は人文科学系)を中心に構成されているため、文学部や文学研究科がないのにもかかわらず、個性的な文学者を数多く輩出しています。

 たとえば、伊藤整や石原慎太郎、城山三郎、あるいは、『伊藤整』によって伊藤整文学賞を受賞した桶谷秀昭といった作家や評論家がすぐに思い浮かびます。

 いずれの校友も、それぞれ、only oneの世界を築いているのが、特長といえましょう。

 城山三郎がクリスチャンだった、というのは、存外知られていないようですが、一橋の校友では、現在のところ、唯一首相をつとめた大平正芳氏もクリスチャンでしたから、一橋人のクリスチャンは結構いらっしゃるのかもしれません。ちなみに、ぼくはカトリックです。

 その城山三郎は、60歳を超えてもなお、毎年正月は、一橋の恩師、山田雄三名誉教授の投宿先パレスホテルを訪ねていましたが、それ以外にも、二人だけのゼミナールを山田先生の晩年まで続けていたことは、その著『花失せては面白からず』−山田教授の生き方・考え方(角川書店、1996年)に詳しいところです。このように、ゼミナールを重視した教育をしているのも、一橋の特長だということは、いまさら私ごときがいうまでもないことですが。

 ひるがえって多くの私大では、早稲田もそうですが、ゼミナールは必修ではありません。

 なぜならば、学生全員がゼミナールに参加すると、ひとつのゼミナールで学生を50人も60人も収容しない限りあぶれてしまう学生がでてくるからです。これでは、ゼミナールの体をなさなくなってしまうため、選抜制にして、不合格の学生はゼミナールに参加できないようにしているのです。尤も、向学心のない学生にとっては、ゼミナールに参加しなくても卒業できるのですから、この制度は、学生にとってもありがたいことなのです。ちなみに、社会科学系の学部の場合、私大では、ゼミナールに参加しないと、卒業論文も課されないのが通例です。

 さて、その山田先生に関して、城山は次のように記しています。
 「ごく偶に、教授から拙宅に電話があると、わたしは緊張して受けるらしく、
「あなたは直立不動でお話している」
 と、妻は言う。
 そのつもりでなくても、体がそんな風になってしまう。それが、わたしにとっての教授であり、いまなおそうした教授を持てることに、ひそかに幸せを感じている。
 その思いから、わたしは照れかくしのように妻に言う。
「一人はこういう人を持たなくちゃ、人間はだめになるんだ」」 

 この箇所を読んだとき、これは、落語家の師弟関係に似ていると思ったものです。ぼくは、師匠の許に入門を許されてから、早くも30年が経ちましたが、未だに師匠から電話を頂くと、恐縮して、身体が自然にへいこらしてしまいます。これほど、色濃い師弟関係が築かれるのも、ゼミナールの賜物でしょう。

 山田雄三教授の恩師は、福田徳三教授でしたが、同教授のレリーフは、附属図書館東南にあります。それに関して、この『如水会々報』になかなか感動的なエピソードが披露されているので、ここに再録させていただきます。

 「昭和43年9月から44年にかけて、一橋大学にも学園紛争が起こった。その折のことである。図書館正面の潅木の中にある福田徳三先生のレリーフに、アジビラがペタペタと貼られ、先生のお顔がアジビラで埋もれてしまったことがある。島野君雄先輩(11学)は、学生に角棒で撲られることを覚悟の上で、ピケラインを突破し、自動車車庫よりバケツとタワシを借りて、アジビラを剥がした。」 

 この島野君雄先輩のような行為は、私大の卒業生では、ちょっと想像しにくいことです。それほど、一橋では師弟間の距離が濃密なのでしょう。ちなみに、福田徳三先生も、クリスチャンでした。

5、伊東光晴先生の述懐
 私事でおそれいりますが、ぼくが文学部の学生だった1980年ごろ、東日本大震災後閉鎖された九段会館で、岩波書店主催の講演会に足をはこんだことがあります。

 錚々たる講師がそろったからで、それは、松本清張、安岡章太郎、当時は千葉大学教授だった伊東光晴の3氏でした。どんな内容だったのかは、皆目覚えていませんが、そのときの3氏の圧倒的な存在感は、いまもよく思い出されます。

 伊東光晴の恩師は、福田徳三のゼミナールで学んだ、杉本栄一でした。その著『近代経済学の解明』(1950年)は、ながく必読書だったことはご記憶の方も多いでしょう。

 伊東光晴は、一橋大学の学生だったとき、1学年に8人の「特別研究生」に選ばれて大学に残ることになりました。その審査を行う委員会の委員長は、杉本教授の論敵だった中山伊知郎教授。したがって、伊東さんは、自分が特別研究生には選ばれないだろうと思っていたところ、中山教授は伊東さんを選びました。

 「この一件があって後、伊東さんは、自分の助教授(当時)や後継者には、立場や考え方、研究のスタイルが違う人材を立てるように心がけている」 そうです。

 同記事によれば、「能力が自分の八割の者を後継者に選んで、それが三代続けば、能力は半分以下になる」と伊東さんは教え子によく話していたそうです。

 なお、杉本教授にかんしては、その講義を受講した桶谷秀昭さんが、興味深いエピソードをご紹介なさっています。ただし、無断転記転載を禁ずということなので、ここにそれを引くわけにはまいりません。如水会のHPにてご確認いただきたいと存じます。『福田徳三とその弟子たち』と題され、そのURLは、次のとおりです。https://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/59/oke/main.html

6、おわりに
 ぼくが、この4月から一橋の学生として、大学院の授業を受けていて、それまでの立教と早稲田のいずれにもない、よき風習だと感じ入ったことがひとつあります。

 大学院の授業ですから、座学はすくなく、多くは学生に研究発表が課されます。その発表がおわると、立教でも早稲田でも、それが充実したものであれば、拍手がわきましたが、それは稀であって、発表をきいていた学生は、たいていの場合「お疲れ様でした」とねぎらう言葉をかけるのに留まったものです。
 ところが、一橋では、どんな発表でもそれがおわると例外なく、拍手が自然発生的に沸き起こるのです。

 以上が、ぼくのつたない話ですが、拍手をいただけるのかいささか心配しながら、終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。