時は受験シーズン真っ只中ですが、日本を最も代表する心情を、本居宣長は『源氏物語』の注釈書「玉の小櫛」でそれをどのような言葉で概念化したでしょうか、という問題が出れば、受験生は躊躇なく”物の哀れ”と答えるでしょう。西暦千年から二千年に至るミレニアムの日本人の核となる心の有り様を、”物の哀れ”以外の言葉で表すのは、これはなかなかの難問で、もちろんぼくの手には到底負えるものではありません。
さて、ここでいきなり卑近なことを申しますと、ぼくが最もこの”物の哀れ”を感じるのは、旨くないものを食べたときなのですから、我ながら何ともいやはや情けないったらありゃしない。
噺家は前座時分から師匠のお供で、嘉肴の味を舌に覚えこませるせいか、食通が多いのは好く知られるところですが、こういう間抜け野郎もいるのですから、困ったものです。以前本稿でも書いたことがありますが、この不味いものには眼がないという、一種奇妙な趣味はや止まりません。ここで誤解のないように敢えて申しますが、いくら不味いもの好きなぼくでも、旨いものはちゃんと旨いと思い、その口福を幸福感をもって有り難く味わうのです。なにも不味いものしか食べたいわけではなく、時たま不味いものを口にして、しみじみと”物の哀れ”の情に浸りたいだけなのです。あぁ、それなのに、それなのに。近年、この不味いものを供する飲食店がとみに減ってきたような気がするのですが、読者の皆様はそうは思われませんか。
ぼくが思うにその元凶は、飲食産業のチェーン店化です。つまり、ついこの間まではどこの駅前にもごく当たり前のようにあった個人営業の定食屋が、東京ではほぼ絶滅してしまい、その代わりに叢生しているのが、国内外のハンバーガーショップや立ち食いそば店、牛丼(飯)屋です。あれは、困る。特にいけないのが、M屋。二百九十円ですよ。価格で街の定食屋は到底太刀打ちできません。その上そこそこの味なのですから、もはや勝負にはならないのです。
だいたいが街の定食屋は造作からして薄汚く、サービス産業との自覚が全く欠如しているうえに、ぼくがお墨付きを与えた店は料理が不味いという致命的な欠陥を蔵していますから、今まで潰れないのが不思議だったのです。そこに眼を付けたのが、定食屋チェーンです。今やその雄の定食屋は、株式上場を狙うほどの人気を誇っています。
この今まで潰れないのが不思議だった店が潰れる現象は、何も定食屋に限らないようです。大規模小売店舗法が撤廃されてからというもの、駅前商店街のそこかしこで徐々にではありますが確実に、各店舗のチェーン店化が推し進められています。この一事は消費者に利、のみをもたらすものなのでしょうか。