戦後の日本は、経済成長に価値の重心を置き、物質的豊かさを追求してきました。そうした社会では「生」にのみ関心が集中し、死とは正面から向き合おうとはしませんでした。
ところが、少子高齢化社会が到来し「死亡者急増時代」を迎えた今日、死は身近で日常的なものとなり、どんな死生観を持つかが大きな課題となってきました。
もちろん、だからといってすべての日本人が死をなおざりに考えていたわけではありません。それが証拠に、自分が死んだ後のことを考える人が増えてきたのです。たとえば、夫婦でちがう墓地に埋葬されることを望んだり、遺骨の散骨や献体を希望する方々が近年急速に増えているのもその証左でしょう。
今月二日未明にお亡くなりになった新橋にある「炉ばた」という居酒屋の大女将もその一人でした。「炉ばた」は、我々落語家とは切っても切れない関係にあり、はなは三遊亭円橘師匠が前座時分に飛び込みで落語会を持ちかけ、それに同意した御主人の肝煎りで始めた「炉ばた寄席」が現在までつづき、今でも週に二回、通算して三千回以上にわたって落語会が続いているのです。その大女将にぼくは前座の頃からですから、もうかれこれ十五年以上にわたりお世話になりどおしです。大女将が亡くなったという三遊亭楽松さんからの電話を受けたのは、二日の午前七時半頃のことでした。
まさに茫然自失とはこのことで、その前の週には元気な大女将手ずから御祝儀を頂いているのです。それが十日を経ずに亡くなってしまうなんて、あまりと言えばあまりに呆気ない死出の旅でした。経過を御遺族に伺うと、亡くなる前日友達と会っているときから、どうも具合が悪い、これはおかしいというので、自分でタクシーに乗ってかかりつけの慈恵医大に診察に出向いたというのです。けれど、いくら検査をしてもどこも悪くない、といっている医者の目の前で動脈瘤が破裂し、あっという間に亡くなってしまったというのです。天命とはいえ、こんなことが果たして許されるものでしょうか。
そのうえ、大女将は生前献体を申請していたので、遺体はすみやかに医大の管理下に入ってしまい、どういう具合のものか、遺体の返還は平成十七年になるというのです。ぼくは献体制度にはなんの知識も持ち合わせてはおりませんが、遺体が遺族のもとに返ってくるのに三年もかかるというのは、いったいいかなる理由によるものでしょうか。
それにつけても大女将は、「炉ばた寄席」三千回のうち相当数を聞いているでしょうに、我々にとってまことにありがたいことに、噺の出来が好いときには、じつに楽しそうに笑ってくれたものです。その笑顔を見たさに稽古に励んだ落語家はひとりぼくに限ったことではないでしょう。謹んで御冥福を祈るのみ。