『東京都議会傍聴記』
慣例として1月に召集された通常国会は6月にその150日の会期を終えることになっていますが、今年も延長されたように、なかなか6月中に閉会しないのが、最近の国会の動向です。けれど、目を地方議会に転ずれば、会期通り6月に閉会されるのが、通例です。
よく町田は神奈川県と勘違いされますが、いちおう東京都なので、たまたま東京MXテレビで放送していた東京都議会中継を見ていたのです。会期最終日の6月26日のことでした。
午後1時から放送が始まり、ぼくはそのうちほんの20分ほどを漫然と見ておりました。つまり、ぼんやりと見ていたのですが、議会を傍聴した方はご存知でしょう。あれは、とてもじゃありませんが、根を詰めて熱心に見られる代物じゃありません。その日の議会も名称こそ、「討論」と銘打ってはおりましたが、どうしてそんな名称を冠したのか識見が疑われますね。内実はただ、各党の代表が代わり番こに演壇に登場し、ただ用意した(された?)原稿を棒読みしているだけなのですから、傍聴するほうはたまったもんじゃありません。傍聴されるのになにか不都合なことでもあるのか、わざとつまらなく読んでいるのではと勘繰りたくなるほど、退屈な時間が議場を支配していました。なかで自民党の議員が原稿を棒読みしているなかで「キリサツ」と発言したのです。はじめ、ぼくはこれが分からなかった。キリサツとはなんだろうと、しばし考えた後、やっと分かりました。つまり、かの議員は「切り札」をこともあろうに「キリサツ」と読んだのです。ところが議場は尚も驚くほどに静かなのです。「キリフダ」だろうとの野次ひとつ飛ぶわけではなく淡々と「討論」が進行しているばかりなのです。これには参った。もはや「キリサツ」程度の誤読は日常茶飯事なためになんの反応も示さないのか、それともだれも聞いてはいないのか、それとも聞いていてもその誤読に気づいていないのか。なにはともあれ議場はシーンと水を打ったように静まり返ったまま。ここまで見て、ついにあきれ返ってぼくはテレビのスイッチを切ったのでした。
たとえば、この「キリサツ」と読んだ議員に投票した有権者がこの場面を見ていて、次回の選挙でもこのE議員が立候補した場合、果たして投票したいと思うでしょうか。ぼくなら、日本語を日本語たらしめている最低の基準、常用漢字も満足に読めない、つまり、言葉も知らない者にどうして貴重な一票を投じましょうか。政治とは言葉で相手を説得させるほかに術がない世界なのですから。その世界の住民が「キリサツ」ではねぇ。そもそも不思議なのは、どうしてその程度の立候補者が当選してしまうのかという現実です。もっとも、これはなにもE議員ばかりではなく、鈴木宗男だって当選を重ねたのですから、仕方がないのかもしれませんが。だいたいが、議員の質を見ればその地域の有権者の質が分かるという言い方は、乱暴に過ぎるでしょうか。ぼくはこの考え方に残念ながら反論できないのです。さもありなんと思ってしまう。
もうひとつ。ではE議員の読んだ原稿はいったい誰が書いたのか、それを知りたいのです。まさか、御自分で書いたのではありますまい。なぜなら、日常ではE議員も「ジャイアンツの抑えの切り札河原投手」を決して、「キリサツ」とは云わないでしょうから。ならば、あの原稿は秘書が書いたのか、あるいは自民党の議員ですから、都議会自民党の誰かに書かせたのか、いずれにしろ、他人が書いた原稿を議員がただ棒読みしているだけで、ディベイトすらせず、ほとんどの議案は委員会で決し、本会議は単なるセレモニーの場となっている議会にだれが傍聴したいという誘因を持ち得ましょうか。