町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

立教大学 全学共通カリキュラム「個人と社会」リポート大学での活動

2001.01.31(水)

【機関】立教大学 全学共通カリキュラム 総合教育科目
【科目・タイトル】個人と社会・社会について議論するためのヴェーバー入門
【開講学期】2000年度 後期[2単位]
【担当】矢野 善郎 教授〈中央大学 文学部 社会学専攻〉
【リポートの課題】講義中に出したヒントを参考に、マックス・ヴェーバー自身が書いた本(論文)を一冊以上読み、それを通して考えたこと、特に、それを読んだことで、現代のあなたが生きている社会についての、あなた自身のものの見方や議論の仕方がどう変わったかについて述べよ。
【分量】4,000字
【課題図書】マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平訳

1. 始めに
 数多あるヴェーバーの著作の中から本書をレポート作成のために選んだ理由は、現代日本の政治状況をヴェーバーの視点を援用して考えてみたかったからである。

2. 序論
 本論劈頭でヴェーバーは、政治とは何か、その広い概念を明らかにし、続けて、本書で考察を加える政治という場合、「政治団体―現在でいえば国家―の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為」、と限定する。

 その国家とは「正当な物理的暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である」とヴェーバーは定義を与えた後、矢野先生が講義で取り上げた支配の三類型を提示する。

 即ちその三つとは、合理的につくられた規則に依拠した(1)合法的支配、日常的伝統に依拠した(2)伝統的支配、非日常的な信仰に基づく(3)カリスマ的支配、である。

 ここで、とりわけヴェーバーが興味を抱いているのが「カリスマ的支配」である。
 支配者に「天職」という考え方が最も鮮明な形で根を下ろしていると、ヴェーバーは見ているからである。

 つまり、「カリスマ」政治家こそ「天職」に基づいているのである。
 ただ、この天職が曲者であって、ヴェーバーの死後ではあるがドイツに現れた、ヒトラーのようなとんでもない政治家は、カリスマ性を悪用して権力を掌中に納めた。そして、ヒトラー自らは総統を「天職」と信じて疑っていなかったのではないか。

 また、本書中ヴェーバーが再三強調しているのが、「政治をおこなう者は権力を求める」ということである。
 その場合、権力を別の目的のための手段として追求するか、それとも優越感を満喫するために追求するかの違いはあれ、何れにしろ、権力を追求する。ヴェーバーが言うには、それは実に政治家にとってノーマルな資質の一つである、と説く。

 なお本稿では、上記「政治家の権力本能」を端緒に、民意が容易に反映されない現今日本の政治状況とを対比させつつ、小考を加えたい。

3. 本論
 たしかに、権力欲が全くない政治家を探すことほど無駄な努力はない。

 権力を求めない政治家はいないという意味で、矛盾概念に等しい。

 それは一にかかって自らの政策を実現するために人は政治家たらんと欲し、政策実現の近道は権力の掌握だからである。

 ただ、政治家の権力本能について考える前に、政治を職業とするといっても、二つの道があることを明らかにする。

 ヴェーバーの言葉を借りれば政治「のために」生きるか、それとも政治「によって」生きるか、そのどちらかである。

 この区別は、政治を恒常的な収入源にしようとする者、これが職業としての政治「によって」生きる者であり、そうでない者は政治「のために」生きることになる、とヴェーバーは分類しているが、これをそのまま現今日本の政治家に直接当てはめることは出来ない。

 たとえば資産に恵まれた政治家は、それを有しない政治家に比して、はたしてどれだけ政治によってではなく政治のために、その活動を行っているのだろうか。

 議員報酬に頼らずに生活していけるのであれば、その政治家は当選を目的にすることなく、自ら提案した政策の実現のみにその政治活動を集約できる。

 しかし、それでも尚かつ当選することを至上命題にして政治活動を営む政治家を、しばしば見受ける。

 これは、議員報酬よりは議員でいること、それ自体が目的化しているとしか、考えられない。

 あるいは広く地方議員一般に目を向ければ、都会から離れればそれだけ顕著に現れるが、保守系議員の殆どは純然たる不労所得者で占められている場合が間々見受けられる。

 これら恒産を有する職業政治家は、自分の政治上の仕事に対する報酬を直接求めなくてすむ。
 「財産がないと、否でも応でも報酬を求めざるをえなくなる」とヴェーバーはいうが、政界を舞台に行われる贈収賄事件において収賄の罪に問われるのは、多くの場合資産を有する職業政治家であるという日本の現況がある。

 この一点をとっても、財産を有しない政治家のほうがむしろ、議会活動以外の政治にまつわる報酬を求めない廉潔の士である。

 政治が「名誉職」としておこなわれるということは、政治がいわゆる「自主独立の」人によって、つまり資産家、ことに利子生活者によっておこなわれるということだが 、たしかに日本においても従前通り、国民総生産が右肩上がりで増え続け、その結果税収も増加する状況にあるならば、政治家はその増える税収からどれだけ、自らの集票マシーンとして機能する関係諸団体に予算をまわせるか、それのみを政治の行動原理としていれば、有権者=選挙地盤の信任を得、当選を重ねることができた。

 しかし、現今の経済状況はもはやそれを許さなくしている。たしかに、2001年度政府予算案において新幹線建設関連事業費の突出した伸張は、森首相の地元への利益還元が目に見えるかたちでなされたものである。

 だがひとたび昨年の長野、栃木両県知事選挙に目を転じてみれば、もはや地元への利益(予算)誘導が、有権者の投票インセンティヴの喚起に作用を及ぼさないことは、結果として証明されている。

 つまり、バラマキ型の公共事業に政・官・業ともにもたれあっている三極構造の蜜月に、そろそろ終止符が打たれようとしているのである。

 この政治状況下において必要とされる政治家は有産者ではなく、圧倒的多数を占める無産者である一般市民の意見をすばやく政策に反映させるべく、無産者の政治家であると考える。
 そのためには、政治活動を通して報酬を得ることが必要とされる。

 つまり、政治によって生きる者が、政治のために生きる者よりも、より有権者には有用な政治家として機能することになる。

 ここで併せて考えなければいけないのは、政治によって生活するものはひとり職業政治家に留まらず、官吏も含められることである。

 この専門訓練をうけた官吏の台頭と時を同じくして、指導型の政治家も登場した。

 ただ、ヴェーバーがいみじくも指摘するように、官僚に政治家の仕事をさせると、論理的根拠の点では有利であっても、技術的な処理がまずくて、不利な事件にしてしまうことがよくある。
 近年の日本に例を求めれば、金融破綻における公的資金の導入が挙げられるだろう。

 現在のドイツの地方議員報酬はささやかな謝礼程度のもので、依って議員であっても昼間別の仕事をし、収入を確保した上で、夜間開かれる議会に出席すると聞いたことがある。

 これならば政治家も名誉職として機能し、政治のために生きる政治家を輩出することができよう。

 振り返って日本の議員報酬は、地方議会から国会議員にいたるまで、さほど低額なものとは言えないまでも、突出した高額を得ているとは言いがたい。

 むしろ、日々の政治活動全てをそれで賄おうとすれば、公明党や共産党のように、政党が丸抱えの議員ならばともかく、個人商店の形態をとる自分党たる保守系議員の場合、政党助成金制度がありながらなお、議員歳費だけではその政治活動を全うすることが極めて困難な財政状況にあると聞く。

 それは、我々有権者にも責任の一半があると思われる。つまり、現今の政治家は選挙の際、選挙区に広く信を問う形態をとってはいるものの実質的には、自ら作り上げ涵養した後援会組織とその周辺の有権者に重点を置いた選挙活動と、引いては政治活動をしているのが現実である。

 したがって後援会会員は、立候補者に票を出す代わりに、候補者が当選した暁には、その議員を使って自らへの利益導入を図ろうとする。
 身内の葬式における花代や結婚披露宴への出席等の些末な要請から、進学、就職の際の口利きを議員に依頼して、その便宜を図るのが当然のこととして、それに応えようとする議員側。

 後援会会員であるか否かで、同じ能力の者が選別されることは少なくなったとは言っても、未だある現実では、誰しも保険を掛けるように、保守系議員の後援会会員になろうとすることを、留めることはできない。

4. 結論
 保守系議員における後援会の存在を私は一概に否定するものではない。
 議員とすれば安定した票を確保するために後援会活動を行うことは、なんら非難されるべきことではないからである。

 むしろ、後援会をもたない議員ばかりで構成される議会を想像する方がより、民主主義の危うさを感じる。

 つまり、そこで選ばれる議員の全てとは言えないまでも、相当多数がpopulistであり、あるいはDemagogであり、あるいは人気はあれども政治的修練を経ていないため官僚の言いなりに成り下がる、例えて言えば青島幸男前東京都知事のような政治家の輩出をもたらすことが、容易に想像できるからである。

 旧態依然たる日本の政治を刷新するために有権者に最も要請されることは、近年低落の一途を辿る総選挙の投票率がその例であるが、マスコミ報道によりあたかもその選挙に参加しているかのような錯覚に陥る劇場型選挙でバーチャルな政治参加に陥ることなく、先ず自ら投票に赴くことである。

 その投票行動において最も尊重されなければならないのは、自らの意思であることは言を俟たない。その上で信任を得た政治家ならば、選挙民、官僚ともにその政治家の政策遂行に協力を惜しまないであろう。
 本書中にある通り、「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくりぬ貫いていく作業である」のだが、ここから政治が始まることは今なお変わらぬ真実である。