I.T.とは、立教大学経済学部専門教育科目「経済地理」(現「経済地理学」)の担当、矢延洋泰先生の私的ゼミナールで出している会報です。
そこに寄稿したものを転載させていただきました。
「誰でも首相になれる国」
いつの頃からか日本人は、自らの首相を尊敬しなくなったようである。たしかに、現首相小泉純一郎は異常とも思える高支持を今のところ得てはいるが、そのうち果たしてどれほどの者が小泉を尊敬しているのだろうか。ぼくはこの高支持の理由は、尊敬している故からというよりは、たんなる人気投票の域を出てはいないからだと思う。そんなところから、首相公選制という議会制民主主義を真っ向から否定する、単なる人気取り政策が脚光を浴びるのだろう。ただ、ここでいう首相を尊敬の意は、北朝鮮のように国民全員が首相を尊敬するべきだという意味では、もちろん、ない。しかし、だからといって国民が馬鹿にする首相を戴くことは、有権者が天を仰いで唾するようなものである、と言いたいだけなのである。
評論家の関川夏央は、「日本人は戦後、だれにでも首相が務まるシステムを作ろうと努力してきた」と、今年の1月10日付け朝日新聞で語っていた。
たしかに憲法にあるように、首相になるにあたっての制限はただひとつ、国会議員であることだけである。つまり、日本国籍を有した25歳以上の者のうち、衆議院議員に選ばれ、その480議員のうち、過半数の賛意を得た者は誰でも首相になれる国となった日本は、民主主義を達成した国である、という言い方はできる。
その結果、普通の感覚で判断して、どうみても首相には相応しくない人物ですら、首相指名選挙に立候補し、その結果衆参両院の過半数を制し、当選して首相指名を得ることが実際にあったし、官僚が機能していたあいだは、首相は、誰でもよかったのである。
たしかに、戦後日本の高度成長を考えるうえで、中央官僚の果たしてきた役割は絶大なものがあった。日本のbest&brightestをリクルートした中央官僚のキャリア組は、手本とする目標にキャッチアップするためには、実に効率的にその機能を果たした。しかし、高度成長を果たし、GDP世界2位となり、バブル期に及んで、もはや追いつくべき目標を喪失してしまったときから、その発揮するべき能力が急激に衰えてしまったようである。
その目指してきた国が実現した今、日本国民は深い徒労感に苛まれているのではないだろうか。こんな国にするために我々は政治に一票を投じてきたのだろうか、と。たしかに、首相が森から小泉に変わったことで、先述のように現首相は異常とも思える高い支持を、現在は得ている。けれど、構造上なんらの変化も来たしてはいないのである。
それは、政・官・財のトライアングルのうち、突出した力を担わされた官僚が主導する国である、という構造である。
だから、政権党の政治家は官僚の書いた原稿を読むことで答弁が勤まり、官を糾す機能は求めても詮無い。むしろ、官僚がいなければなにもできない政治家ばかりを輩出させてきた有権者が、自らを恥じるべきだろう。しかし、このような日本全体を考える能力のない政治家であればこそ、自分の後援者のことしか考えないので、後援者にとっては利権を持ってきてくれる、実にありがたい政治家なのである。よって、有権者は自らに利益を導入するために、それに相応しい政治家に投票してきた。
ならば、果敢に官僚と闘う田中外相がいるではないかと、問われれば、彼女は例外的存在と答える。どんな世界にも例外はあるのである。むしろ、例外に頼らなくては何も出来ない構造それ自体が問題なのだ。
では、かくのごとく跋扈する官僚を糾すには、どうしたらよいのだろうか。
一案は、日本に、現政権に抗し政権奪取可能な政党をつくり、その政党が政権党となった暁には、各省庁の大臣は任命権を行使して、間違った施策を行った上級職の官僚を根こそぎ代えればいいのである。つまり、民間ではごく当然のことながら、高級官僚であろうが責任はしっかりと取っていただくのである。もちろん、退職後従来の官僚のように天下りはさせない。官僚は、天下りしてなお、現役以上の報酬を得られるシステムを今まで温存させてきたが、もうその甘い汁は吸わせないため、特殊法人にも大胆にメスを入れることが、肝要である。以上のことを官僚の抵抗に抗って推進することが可能な政治家が、はたして今の日本に何人いるものだろうか。