経済学部も卒業しましたから、経済学に関する本はほんの僅かではありますが、在学中に読みました。なかには、なるほどと眼から鱗が落ち、さすが専門家が書くものは中身が濃いと感服したものもありましたが、読書の絶対量が少なかったからか、経済学の本を読んで感動したことは、ついぞありませんでした。
ところが、今回初めて、経済学の本を読んで感動したのです。神野直彦〈東京大学〉名誉教授による『人間回復の経済学』(岩波新書)です。神野教授は審議会への参加のほか、新聞、雑誌にも頻繁に登場していますから、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。
立教大学経済学部の専門科目「財政学」の教科書(2000年度)が、神野教授編著の『日本が直面する財政問題』(八千代出版)でしたから、神野先生の考え方のおおよその基盤は分かっていましたが、まさか著書を読んで感動するとは思ってもいませんでした。
次に記すことは、すでに公知のことです。けれど、興味のない方にとってはたぶん御存じないことなので、あえて記しますが、日本の経済学は、世界の大勢通りその主流は近代経済学です。ところが、細々とではあるものの、マルクス経済学の命脈も保たれているようです。
竹内洋(京都大学・関西大学名誉教授)『大学という病−東大紛擾と教授群像』(中公文庫)や、橘木俊詔(同志社大学経済学部)教授の『東京大学 エリート養成機関の盛衰』(岩波書店、2009年)によれば、東京大学経済学部では、戦前においては、(1)国家主義グループ(代表は土方成美)、(2)自由主義グループ(代表は河合栄治郎)、(3)マルクス主義グループ(代表は大内兵衛)の3つの派閥が教員の採用、昇進、休職、退職に関する人事、学部長選出等、教授会での様々な決定事項を巡って抗争していました。
その抗争が戦後一変し、京都大学経済学部と同じように東京大学経済学部でも、マルクス経済学が中心となって研究・教育がなされるようになったのです。
しかし、この伝統も高度経済成長期を終了する頃から微妙な変化を示すようになる。徐々にマルクス経済学者の数が減少し、逆に近代経済学者の数が増加することになりました。
そして、橘木によれば、東大経済学部では、1970‐80年代あたりから近代経済学者が主流となり、現在ではマルクス経済学者はほんの少数にまで減少した、という。(橘木本174頁。)
それを、「今ではそのうちの河合栄治郎の自由主義派の勝利と言えるのである」と、橘木は記しています。
母校の立教大学経済学部では、東大経済学部と同じように(橘木本169頁)、経済原論はAとBの2科目があり、経済学科では、マルクス経済学を学ぶ「経済原論A」(通年・4単位)は、「経済原論B」とともに必修科目です。
その「経済原論B」(通年・4単位)は、近代経済学の理論と方法を内容とする講義であり、ぼくが履修した2000年度では前期にミクロ経済学を、後期にマクロ経済学を学びました。
ぼくが立教の経済学部に在学していた当時、マルクス経済学を主流とする経済学科と、近代経済学を主流とする社会学部産業関係学科の教員の仲の悪いことといったら、学生の目からも奇異に写ったほどです。ちなみに、産業関係学科では、経済原論Bという科目はなく、それに該当するのは「現代経済学」でした。
それも2006年度に、経済学部経営学科と産業関係学科が合体した経営学部ができたことによって、解消されましたが。
マル経の学者は近経の学者を、少なくない場合「俗流経済学者」というんですね。何もそんなに悪く言わなくてもいいじゃないのと思うのですが、枕詞のように、そう言う。ならば、近経の学者はマル経の学者をどう呼んでいるのでしょうか、「亜流」とでも呼ぶのかしら。
いずれにしろ、神野先生は立教の経済学部「財政学」の科目で教科書に指定されるぐらいですから、当然マル経の学者です。
いうまでもなくマル経と近経を隔てる最も大きな違いは、労働価値説か効用価値説か、どちらをその主張の根本に置くかというものですが、小稿ではそれに触れている余裕はないので、その説明は省きます。それでも簡単にその違いを言えば、近経が市場原理主義であるのに比して、マル経は人間中心主義といえるでしょうか。
『人間回復の経済学』は、財政社会学的アプローチから、人間の全体性をおしつぶしてしまうような現在の構造改革に異議を申し立てている。というよりも、構造改革の背後理念となっている主流派経済学に異議を唱えている。正確に表現すれば、精緻に組み立てられた主流派経済学の理論的前提と現実との相違を無視して、それを現実に無批判的に適用しようとする俗流経済学に異議を申し立てている。
そこで神野教授が提唱するのは、人間の夢と希望を行動基準にし、人間の社会をより人間らしい方向へと、社会のハンドルを切ることである。
同書では、繰り返し、現在行われている「構造改革」の愚を批判している。たとえば、24ページでは”日本が1980年代からくりかえしてきた規制緩和、民営化、行政改革をキャッチフレーズにした「小さな政府」をめざす構造改革の結果、悪夢のような現実が生じてしまえば、そうした構造改革が誤った方向にハンドルを切ってしまったことに気がつくべきである。”というように。
いずれにしろ、1991年にバブル経済が破綻してから続いた10年を「失われた10年」とするならば、「失われた20年」としないために、現在進められている「構造改革」を打破し、人間中心の経済を取り戻さなくてはならないと、ぼくもつよく念じたのでした。