【テーマ】日本の構造改革-何処をどう変えるのか
【日時】2002年11月6日13時30分~17時
【会場】学術総合センター(千代田区一ツ橋)一橋記念講堂
【主催】京都大学経済研究所
【後援】朝日新聞社・ダイヤモンド社
シンポジウム『日本の構造改革』の配布資料とパンフレットです
京都大学経済研究所といえば、あらためていうまでもなく日本で、世界水準に伍する数少ない経済研究所のひとつとして、斯界の注目を集め続けている存在です。
それは、研究職員の顔ぶれを見れば一目瞭然です。所長の佐和隆光を始め、西村和雄、橘木俊詔、浅田彰等綺羅星のごとき陣容を誇っています。
その橘木俊詔によれば、日本の国立大学には経済研究所が5つあるとのことです。そのうち、一橋大学、京都大学は経済研究所を名乗っているが、東大は社会科学研究所、大阪大学は社会経済研究所、神戸大学は経済経営研究所です。
当会のお目当てはなんといっても、2時間以上にわたって繰り広げられた、上記のパネルディスカッションでした。コーディネーターは所長の佐和隆光がつとめ、パネリストは、来年度から早大大学院で教鞭を執る植草一秀、ミスター円こと慶大教授榊原英資、同じく慶大教授の深尾光洋、東大教授にして経済財政諮問会議議員でもある吉川洋という、豪華このうえないラインナップ。ちなみに敬称は、略させて頂きました。
定員は350人ですが、満員の入りでした。
その満員の聴衆を前にして、そもそも「構造改革」とは何かということから、議論は始まりました。
たしかに、小泉純一郎代議士の首相就任とともに、「構造改革」が口の端に乗らない日がないほど、巷間よく使われる言葉でありながら、実体は曖昧模糊としています。
植草は、(1)財政状態の極度の悪化(2)不良債権問題の改革が、「構造改革」と主張し、榊原は、レヴィ=ストロースやブルデューを援用し、そもそも構造は変わらないから構造を成すと主張する。ただ、明治以来連綿と培ってきた構造、ではなく日本型の「制度」ならば、改革も可能と主張。対して吉川は、シュンペーターやパシネッティを引き合いに出して、経済学的には、構造は変わるものと説明できる、と榊原を挑発するような発言。深尾は(1)不良債権処理(2)財政支出改革(3)財政投融資改革をもって、構造改革と主張。
次に、日本の「構造」の特質とはなにか。今度は逆に深尾から発言を求められ、たとえば長期雇用制度もそのひとつだと、主張する。その弊害として、昨今の企業倫理の麻痺を挙げる。長期雇用は若年では、その労働力がマーケットヴァリューに比して不当に安く抑えられているが、高年齢になるにつれ、今度はマーケットヴァリューに比して格段に高い報酬を得られるため、その地位を手放したくないために、高齢者は社会的には認められないことも、会社からの要請とあれば断ることができずに、遂行してしまう。
榊原は政治の二重構造を挙げる。たとえば、日本の輸出関連産業は世界的にも高い生産性を有するが、対してサービス業等の非製造業では、少ない競争性ゆえの低収益にあえいでいる。そこに、官僚と結託した族議員が補助金を注入することによって、お互いの命脈を保っている。この族議員は、内閣には入らず、与党の中枢を担うことによってその力を発揮している。つまり、政治の力が内閣と、既得権益を有する官僚に支えられた族議員との二重権力構造になっているために、首相といえどもその政治力を有効に活用することができない、と主張する。
以降、「構造改革なくして景気回復なし」を標榜する小泉内閣への批判が展開される。とにかくまずは、デフレ阻止をしなければ景気回復はおろか、構造改革すらできないと深尾が主張。ここから、竹中批判のオンパレードの様相を呈する。
以上、ごくごく大雑把なサマリーをご紹介しましたが、別段取り立てて目新しい発言をする方は、いませんでした。
それにつけても気になるのが、最近の竹中バッシングです。エコノミストは竹中の悪口さえいっていれば飯が食えるかのように、揃って竹中を批判する。
ところが、輿論は冷静にことの推移を見守っているようでして、今月の3、4日に朝日新聞が実施した全国輿論調査の結果、竹中経済財政・金融担当相を評価するものが41パーセント、評価しないものが39パーセントと合拮抗しているのです。
ぼくは竹中路線を基本的には支持しますが、その実行のためには、手厚いセーフティネットの構築が前提となります。今の状態で、竹中改革を推し進めれば、植草が言うように、「病人に麻酔も止血もせずに、鉈で外科手術を施すようなもので、一般には殺人と呼ぶ」ような改革となってしまうことでしょう。
佐和が、このパネルディスカッションの総括を述べているときに、「これから高齢化社会を迎え、年金受給者が増えるし、環境保全のためにも、デフレのどこがいけないんだ」と怒鳴った参加者がいましたが、このようなシンポジウムはどうしても予定調和的になってしまうおそれがあるのです。それを避けるためにも、もう一人、シンポジウムを撹乱するようなパネラーを招くべきだったと思いました。
でなければ、単なる「行事」となってしまうのです。
もうひとつ。参加者の大半は男性高齢者でした。それは、昼間という時間の制約があったためでしょうが、改めてその学習意欲の高さには敬意を表したいのです。とともに、11月の第一週は秋季休業期間の大学が多いのにもかかわらず、肝心の学生の参加者が少ないことは、淋しいことでした。