【箇所】早稲田大学 社会科学部専門科目 商学分野
【科目】産業心理学【開講学期】2005年度 通年[4単位]
【担当】吉川 肇子 教授〈慶應義塾大学 商学部〉
ピグマリオン効果、ノンバーバルコミュニケーション、認知的不協和理論等、現代人には必須の心理学における知見を再認識させてくれた、面白くて、ためになる講義でした。
1、関心をもったテーマ
1)第7回講義〔消費者の知覚と情報検索〕での、2、情報検索(1)情報処理能力の限界において、“消費者は限られた情報しか探索しない。”という命題。
本講義の教科書『産業・組織心理学エッセンシャルズ』p.256にある、“人間の情報処理能力には限界があるため、処理すべき情報が多すぎると情報過負荷状態が生じ”る実態を、筆者が行ったアンケート調査をもとに考察してみたい。
2)日本人において「落語」は、どれほど“深く”認知されているのか。あるいは、あまりに“浅い”認知しかされていないのか。
上記における、“処理すべき情報が多過ぎる”状態とは、本稿の場合、具体的には日本人における「落語」の受容を、指す。
日本人において「落語」とは、決して珍しい芸能とはいえず、広く人口に膾炙しているものといっていい。
事実、落語のテレビ中継は、昭和時代、特にその全盛期ともいえる昭和30年代から見れば少なくなったとはいえ、それでも、今日においてもNHK教育テレビの「日本の話芸」は、放送時間に恵まれているとはいえないものの、毎週1回30分放送されており、放送日の翌日には再放送までされる。
同番組では落語と講談を取り上げるが、そのほとんどの話者を落語が占めており、日本の話芸における落語の位置は、いささかなりとも衰えているわけではない。
また、日本テレビの「笑点」は、長らく高視聴率番組として、茶の間に君臨していることからも、落語は今日においても日本では、決して珍しい芸能とはいえないのである。
それは、中世から連綿と続く、能や狂言と比較してみたとき、落語がいかに日本の庶民に“広く”受け入れられているかが、瞭然となるであろう。
では、その日常的な芸能である落語を、普通の日本人は、どれほど“深く”知覚しているのか。あるいは、あまりに“浅い”認知しかしていないのか。それを筆者は知るべく、このテーマを設定した。
つまり、落語を漠然とは知覚していても、それを的確に知覚している方々が、どれほどいるものなのか。
それを検証することが、本レポートのテーマである。
なお筆者は、「三遊亭らん丈」という芸名の、社団法人落語協会に属する真打の落語家である。ご興味があれば、らん丈HP【URL】https://www.ranjo.jp/において、確認されたい。
2、アンケート調査の基本事項
1)アンケート調査対象
本アンケートは、筆者が担当する下記の講座の受講生を対象に、行われたものである。
文京学院大学・文京学院短期大学生涯学習センターによる、第4期「文京生涯カレッジ1年コース」一般教養科目芸術・文化分野『落語を生んだ江戸の文化』が、その担当講座名である。
2)調査対象者構成要件
受講対象者として本講座は、年齢、学歴、性別を問うことはなく、入学・卒業のための試験も一切ない、大学を母体とした開放型の、いわゆる大学市民講座に該当する。
本年度における受講生の年齢は、42歳から88歳にわたり、全受講生24名の平均年齢は61.25歳である。
また男女比は、女性が21名、男性3名であり、女性が数において、男性を圧倒している。
この原因はおそらく、同大学は今年度から全学部(外国語学部、経営学部、人間学部)が男女共学に移行したものの、昨年度までは女子大学だったために、卒業生も参加する本講座の性格上、女性が多いものと類推できる。
3)調査対象者性向
本講座は「文京生涯カレッジ1年コース」と銘打っているとおり、1年の通年講座であり、全30回にわたって、『一般教養科目』と「英語」「心理・カウンセリング」の2科目から構成される『選択科目』との、2部構成になっている。
筆者が担当する「落語を生んだ江戸の文化」はそのうち、『一般教養科目』の3回分を占めるが、『一般教養科目』においてはほかに、倫理・哲学分野「自立と共生の生き方を探る」、文学分野「アメリカ文学−ヘミングウェイその作品と人生」「フランス文学−ボードレールとその時代」「イギリス児童文学−不思議の国のアリス」「私の文学−演劇と俳優の仕事」、芸術・文化分野「イタリア美術−初期ルネッサンス絵画」「バッハの音楽」、国際情勢分野「イスラム世界と日本」、経済分野「クオータリーに読む身近な政治経済」、自然科学分野「海洋・気象・航海」の合計6分野11科目が開講されている。
上記のように、極めて広範囲の分野にわたって科目が展開されているために、「落語を生んだ江戸の文化」のみを受講したいという受講生は想定しにくく、したがって、アンケートの対象者の性向としては、上記の要件によって構成されている、向学心がある一般的な日本人、という認識設定が可能かと思われる。
4)講座開講日時
平成17年度を、前期と後期の2学期制に期間設定し、前期は4月12日から9月20日までであるが、7月の第4週から8月最終週までは夏期休暇。
後期は、10月4日から平成18年3月7日までであるが、12月第2週から1月第2週までは冬期休暇。
前後期併せて、30回制。
火曜日の午前10時から11時30分までの90分をその授業時間とする。
5)講座授業料ほか
授業料は年間12万円。くわえて、1万円の入学金を要する。
6)アンケート内容
本アンケートは、1回目の講座開講時に掲示し、2回目の講座において回答を回収することを通達した。
そのアンケートの内容は、以下の通りである。
1>題名と内容を知っている落語があれば、それを知っている限り記してください。
2>題名は知っていても、内容は知らない落語があれば、それを記してください。
3>内容は知っていても、題名は知らない落語があれば、それを記してください。
4>落語家の亭号、家号、あるいはそれに類する名前を、知っている限り記してください。
以上4項目にわたってアンケートを試みた。
3、アンケート調査の結果
7人の受講生より回答を得た。これは、29.2%の回答率である。
その7人は、すべての設問に回答した者もいるが、ひとつの設問にのみ回答した者もいる。それらを混ぜて、以下に掲示し、考察を加える。
1)題名と内容を知っている落語があれば、それを知っている限り記してください。
落語アンケート調査結果1
ネタ等 回答者数
1、「平林」- 1
2、「寿限無」- 1
3、「松竹梅」 – 2
4、「野ざらし」 – 1
5、「時そば」- 2
6、「長屋の花見」- 2
7、「桃太郎」- 1
8、「猫と金魚」- 1
9、「らくだ」- 1
10、「火焔太鼓」- 1
11、「兵隊落語」- 1
与太郎- 1
田舎者- 1
粗忽者- 1
泥棒- 1
若旦那- 1
酒と酔っ払い- 1
やきもちと恋患い- 1
1、「平林」から11、「兵隊落語」(柳家金語楼作の新作落語)、「」で括ったもののみが、いわゆる落語のネタに相当し、それ以外の、与太郎等は、小噺を主体とするマクラの部分。
寄席でかけられるネタが300〜400と考えられているのに比して、回答者が11のネタしか思い浮かばないのは、いかにも少ないようにも思うが、内容と題名の両方とも知っているのだから、決して少なくはない、とも考えられる、微妙な数字である。
ネタにおいて、いわゆる前座噺といって、分かりやすい噺が多く見られるのは、これは回答者が、いわゆる一般の市民なので当然のことと思われる。
前座噺というのは、クラシックにおけるモーツァルトのようなもので、決して難解ではなく、ひろく初心者に受け入れられて、尚且つ、ある程度、落語の本質を捉えた噺、という認識が可能かと、筆者は考える。
「時そば」は上方においては、「時うどん」となるなど、江戸落語と上方落語では、同じネタでも、名称に異同があるが、「時そば」を挙げた方が二人いるのは、東京という場所柄当然、と思われる。
2)題名は知っていても、内容は知らない落語があれば、それを記してください。
落語アンケート調査結果2 回答者数
やかん- 1
富くじ- 1
時そば- 1
この設問自体にも問題があったのかもしれないが、いかにも寂しい調査結果である。
もっとも、題名を知りながらその内容をしらない落語が、3席もあった、という考え方も成立するかもしれない。
ただ、「富くじ」という落語はない。「富くじ」をテーマとした、「宿屋の富」や「富久」「御慶」はあるので、このいずれかのネタであろう。
3)内容は知っていても、題名は知らない落語があれば、それを記してください。
落語アンケート調査結果3 回答者数
ジュゲムジュゲム⇒寿限無- 1
山の穴穴⇒浪曲社長- 1
嫁を貰う前に独り言⇒たらちね- 1
小言を言いながらお経を唱える⇒小言念仏- 1
柳亭痴楽は好い男⇒(痴楽作)新作落語- 2
長屋に越してきた男が打った釘⇒粗忽の釘- 1
ここで、寄席のことに触れる。
落語を聞く場としては、大別して「寄席」と「(ホール)落語会」の2種類に分けられる。
「ホール落語会」とは、文字通り特定のホール、紀伊国屋ホールや国立劇場小ホール、国立演芸場などで行われるものを指す。
この場合、出演者とともに、ネタも予め掲示するのが通例である。
したがって、観客はだれがどのネタを話すか、前もって分かるし、そのネタを特定することできる。
ところが、寄席の場合は、出演者はどのネタを選定するか。楽屋入りするまで特定できない。なぜならば、当日の出演者が、先に出演したものから、順にネタを選べるから、同日に同じネタを話すわけには行かず、当日楽屋入りしてから、ネタ帖といって当日のネタを記した帳面を見ながら、出演者はネタの選定作業に取り掛かるのである。
その際、上述のように同じネタはもちろんのこと、類似のネタもできない決まりがあるので、ネタの選定作業は慎重を要する。
その結果ネタを決め、高座に上がった噺家は、楽屋で決めたネタを結局は話さないことがあり、違うネタを掛ける場合が往々にしてある。
それは、当日のお客様の反応によって、自分の力量とお客様の感度に最もマッチングする咄を掛けたいという欲求を常に噺家はもっているからであり、それは実のところ、高座に上がるまで落語家は、分からないからである。
そのようにして、選ばれたネタを一席話した後、ほとんどの噺家はそのネタの名前を言わずに高座を下りる。
それが、特に東京の場合は、粋とされるからである。
したがって、客はそのネタの題名が分からないまま、家路に就くことになる。
筆者は、寄席通いを始めた当座、この風習に大きな違和感を覚えた。なぜ、噺家はネタの題名を言わないのか、と。
ところが面白いもので、寄席通いを重ねるにつれ、いつしかそれに慣れた。
つまり、寄席の場合は、ホール落語とは違い、ネタ、というよりも寄席の雰囲気を客は楽しみ、また、芸人もそれを供する場と心得ているからである。
ここが、寄席とホール落語の最も大きな違いであろう。
なぜこのような事情を記したのかといえば、ひとえに、寄席では上記のようにネタをほとんどの場合落語家が明かさないために、観客は内容は知っていてもネタの題名は分からない落語があることを知っていただきたかったからである。
さて、回答の中身を見てみよう。
回答にあった「浪曲社長」と「柳亭痴楽は好い男」は、どちらも新作落語である。
「浪曲社長」は三遊亭圓歌師匠、「柳亭痴楽は好い男」は先代痴楽師匠の、それぞれの出世作である。いずれも昭和30年代の大ヒット作で、回答者の年代からしてなるほど、と納得した次第。
「寿限無」「たらちね」は、典型的な前座咄。 「寿限無」も「たらちね」も、言い立てといって落語独特のオノマトペ的なセンテンスが頻繁に用いられるので、それが耳に残っていたために、ここに回答したものと、思われる。
「小言念仏」「粗忽の釘」この2席は、寄席でも比較的よく掛けられるネタ。
「小言念仏」も繰り返しが多い(小言を言うシーン)ので、それが耳に残っているためかと思われる。
「粗忽の釘」は、回答者が特別何らかの思い入れを抱いていたネタなのかもしれないが、筆者においてはそれを想定することは不能。
4)落語家の亭号、家号、あるいはそれに類する名前を、知っている限り記してください。
落語アンケート調査結果4 回答者数
三遊亭- 3
三遊亭円朝- 1
三遊亭円生- 3
三遊亭円歌- 2
三遊亭円楽- 5
三遊亭楽太郎- 4
三遊亭金馬- 3
三遊亭歌奴- 2
三遊亭小遊三- 1
三遊亭好楽- 1
三遊亭小金馬- 1
柳家- 3
柳家金語楼- 1
柳家小さん- 3
柳家小三治- 3
柳家三語楼- 1
柳家さん喬- 1
柳家花緑- 2
柳亭- 1
柳亭痴楽- 1
林家- 3
林家三平- 4
林家こん平- 6
林家木久蔵- 5
林家正蔵- 1
林家たい平- 1
春風亭- 3
春風亭小朝- 1
春風亭柳好- 2
古今亭- 2
古今亭今輔- 1
古今亭志ん生- 5
古今亭志ん朝- 5
古今亭円菊- 1
桂- 2
桂文楽- 3
桂文治- 2
桂米朝- 2
桂米丸- 1
桂歌丸- 4
桂三木助- 1
桂三枝- 4
桂米助- 1
桂文珍- 2
橘家- 1
橘家円蔵- 3
橘家富蔵- 1
金原亭- 2
金原亭馬生- 1
金原亭馬の助- 1
立川- 1
立川談志- 2
立川志の輔- 1
鈴々舎- 1
初音家- 1
天乃家- 1
笑福亭- 2
笑福亭仁鶴- 1
三笑亭- 1
三笑亭夢楽- 1
雷門- 1
昔昔亭- 1
月亭- 1
露の- 1
入船亭- 2
五街道- 1
川柳- 1
都家- 1
森乃- 1
明石家- 1
きみまろ- 1
合計70種類。
※上記、家号・亭号のみの記述者を、その家号・亭号の右側にその人数分掲示。したがって、たとえば、「笑福亭」2ということは、「笑福亭」とのみ記した方が2名いたということであって、「笑福亭」と「笑福亭仁鶴」を併せて2名ということではない。
設問は、「落語家の亭号、家号、あるいはそれに類する名前」となっているのだから、亭号、家号が主な回答と、予想していたところ、予想は見事に裏切られた。
なかで「きみまろ」さんは、鈴々舎馬風一門であり、落語協会に所属しているために、間違えるのも無理はないものの、いうまでもなく、落語家ではなく、漫談家である。
但し、ほかの方々は故人も含め、すべて落語家である。
それが、合計70種類とは、かなりの数である。
上位を占めるのは、いずれも「笑点」のメンバーである、林家こん平、三遊亭円楽、林家木久蔵、桂歌丸らの面々である。
ここにおいて顕著なのは、高齢者の落語家の多さである。同じ「笑点」でも、三遊亭楽太郎を除けば、三遊亭小遊三、三遊亭好楽、林家たい平(こん平の代役)らの「笑点」メンバーの比較において、キャリアの若い落語家の認知度は低位に留まっている。
こんなところからも、観客は自らの年齢よりも高齢者を、落語家として認知する傾向が見て取れる。
ここから、年来の疑問が解消した。
筆者は、22歳で弟子入りし、現在(46歳)に至っているのだが、真打になって(平成8年)も未だ、お客さんによく「若い」といわれる。
それは、観客が落語家は自分よりも年齢が高い、という認識を広く共有しているからなのである。
落語家亭号家号一覧
天乃家- 1
いなせ家- 1
入船亭- 8
翁家- 1
桂- 129
雷門- 2
川柳- 2
喜久亭- 1
金原亭- 13
五街道- 3
古今亭- 28
五明楼- 1
三笑亭- 12
三遊亭- 65
山遊亭- 1
春風亭- 25
笑福亭- 55
昔昔亭(せきせきてい)- 5
全亭- 1
瀧川- 3
橘ノ- 1
橘家- 12
立花家- 1
蝶家楼- 1
月亭- 7
月の家- 2
露の- 7
橋ノ- 2
八光亭- 1
初音家- 2
はやし家- 1
林家- 48
春雨や- 1
三升家- 2
都家- 1
むかし家- 1
夢月亭- 1
森乃- 2
柳家- 55
吉原- 1
柳亭- 10
鈴々舎- 7
合計 523
※三遊亭らん丈作成。家号、亭号合計43種類平成16年11月30日現在。
資料:日本演芸家連合発行「会員名簿NO.28平成17年度」上記収録落語家は、落語協会、落語芸術協会、上方落語協会所属の落語家に限られるので、上記の何れの協会にも属さない、三遊亭円楽一門、立川談志一門と故桂枝雀一門は除く。他にも、名古屋をその主な活動拠点とする雷門小福一門等、フリー活動の落語家も同じく、除かれている。
なお、5代目三遊亭円楽一門は総勢50余名いると推定されるが、その亭号は例外なく「三遊亭」であり、立川談志一門も総勢50余名いると推定されるが、その家号はほとんどが「立川」であり、例外として、桂、土橋亭(どきょうてい)がある。
4、結論
上記3、アンケート調査の結果4)においても、記したように、一般大衆は、落語家を無意識裡に自分よりも高齢者と、認識しているために記憶に残るのは、高齢の落語家ということが、理解できた。
また、一般には決して認知度の高くない落語家の名前を記入した方が多いのにも、実は驚いた次第である。
おそらくその理由は、その記名した落語家と記入者が知人・友人関係にあるのではないかと、類推される。
このように、落語家はマスコミによって名前を売るという方法とともに、地道な活動によって営業するという旧来からの方法が、今日においてもかなり有効なことが、ここにおいても証明された、といえよう。