町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

早稲田大学大学院 公共経営研究科「自治制度論」期末課題リポート大学での活動

2007.07.19(木)

【箇所】早稲田大学大学院 公共経営研究科⇒公共経営大学院
【科目】自治制度論(地方政府再編論)
【開講学期】2007年度 前期[2単位]
【担当】片木 淳 教授〈早稲田大学 政治経済学術院〉
【期末課題リポート題目】『合併は合理性と経路依存性を併せ持たなければ成功しない』
【分量】A4で5枚

1、緒論:日本と欧米諸国との市町村合併における差異
 明治維新によってもたらされた近代日本を、地方自治の観点から概観すると、明治2年の版籍奉還により、版(土地)と籍(人民)を、封建制下の支配従属関係から開放し、天皇に帰属させたことに、まず目を向けるべきであろう。

 次に、特筆すべきこととして、明治4年の廃藩置県により、3府(東京、大阪、京都)306県を誕生させたものの、その年末には、3府72県に合併し、県の数を4分の1未満にまで激減させたことが挙げられる。

 このように、日本における地方自治の深化発展とは、その黎明期から、江戸時代より連綿とつながる自然集落からの決別を、広域自治体化を図るための合併という形態を通して、具現化させてきた歴史だと、言い換えることが可能である。

 また、明治以降の近代日本における地方公共団体は、都道府県と市町村からなる二層制をいまなお堅持している。

 それを数量の観点から検証すると、都道府県数はいまでこそ47であるが、廃藩置県が行われた当初は上記のように、3府306県あり、明治21年に市制町村制が公布され、翌年4月1日から施行されるに及び、「明治の大合併」が行われた。

 「大合併」以前は町村が71,314あったものの、市制町村制施行後、行政上の目的に合致した規模という観点から約300〜500戸を標準規模として、それ以前の江戸時代から引き継がれた自治体としての地方公共団体からの脱皮を図った結果、市町村数は約5分の1の15,859にまで激減した。
 以後、「昭和の大合併」、「平成の大合併」を経て、今日の日本の市町村数は、1,804である。こうして、明治期からみると基礎的公共団体は、その数において約2.5%に激減した。

 これは一体に、何を意味しているのであろうか。
ここで比較検討の対象として、欧米各国にみる市町村数の動向を、1950から1990年への推移をとおして概観してみる。

 すると、フランスでは、1950年には38,814あったものが、1990年には、36,763に減少したに過ぎず、さほど大きな異同は生じていない。
ちなみにこれは、200年以上前にフランスで起こった革命当時と、その数において大きな変動はないという事実に、注意を払いたい。
 また、市町村を基礎づけるコミューンの歴史は、中世のキリスト教区にその淵源を見出すことが出来る。

 英国では、1950年には2,028あった市町村が1990年には484に激減したものの、それはディストリクトと呼ばれる広域自治体への統合が進んだことによる変動であって、フランスと同じようにキリスト教区を基本とした、1万以上ある小教区(parish)を基礎にした行政教区は、逆に権限を強化した経緯がある。

 イタリアでは、1950年の7,781が、1990年には8,100へと逆に増加している。

 米国では、自治体が約36,000もあり、なおかつ、1970年代以降増加の一途を辿っている。なお、そのうち、人口が2桁の村が3,000以上もある。(2002年米政府センサス)
 驚くべきことに、米国では全人口の約4割近くが、自治体のない地域(非法人化地域)に居住している。それは、米国における自治体は、市民が住民投票で決議して初めて設立されるもので、決議しなければ自治体はその姿を現さないからである。
 自治体が存在しない地域では、その補完機能として、各州の下部機関である郡などが、大枠の公共サービスを提供している。

 ドイツでは、1950年の24,272から、1990年の8,077へと、3分の1までに激減しているが、それでも2003年現在、人口146人という村も存在している。[注1]

 近代日本は、江戸時代からの共同体を解体し、府県と市町村の合併を陸続と繰り返しながら地方自治を進化させてきたために、地方自治の進展深化を、合併によって達成させようというインセンティヴを、あたかも所与のごとくに受け容れる素地があるが、それは欧米ではメインストリームとはなり得ていない現状を、以上の概観によって確認することができた。

2、「平成の大合併」を検証
 「平成の大合併」の結果、1999年3月には3,232あった基礎的地方公共団体である市町村は、2007年4月1日には1,804へと減少した。これを単純化すると、約45%の自治体が、消失したことを意味する。
これは、当該地域住民の強い要求によってもたらされたものであろうか。

 そのような地域が皆無であるとはいえないにしろ、多くの場合、合併した理由は、町づくりの資金を有利な条件で借金できるようにする、「合併特例債」の発行を認めて、財政面から合併を促す合併特例法が、1999年に改正されたことによって、少なくない自治体が合併を促進させたと考える方が、より合理的である。

 なぜならば、3月31日現在の市町村数の変遷をみると、1999年3,232→2000年3,229→2001年3,227→2002年3,223→2003年3,212→2004年3,132⇒2005年2,521⇒2006年1,821という結果を示しているからである。
上記の数字が雄弁に語るように、合併特例法が改正されても当初は合併数が顕著に増加したわけではなかった。(上記→部分)

 ところが、同法の対象期限が2005年3月末日だったものを、2005年3月末日までに知事に合併申請し、2006年3月末日までに合併する自治体にも対象が拡大されたことにともない、2005年から合併数が、飛躍的に増加した。(上記⇒部分)

 このように、合併特例債を枢要なインセンティヴとして市町村が合併した結果、奇妙な基礎的地方公共団体が多数叢生することとなった。
“奇妙な”というのは、合理性ではなく、経路依存性に偏したとみられる基礎的地方公共団体が、数多く生まれたという意味である。

 経路依存性とは、例えば福井県の鯖江市で日本の眼鏡フレームが生産される必然性はないのにもかかわらず、同市が圧倒的なシェアを占めているように、歴史上の偶然や過去の経緯できまることを経済学では、「経路依存性」と説明していることを指す。[注2]

 その端的な例として、飛地を生むことになる合併の多いことが、「平成の大合併」の特徴と位置づけられるからである。
 “飛地”に関しては、HP「飛地合併の一覧」[注3]に負うところが多かったが、それによると、昭和5年から昭和50年までの45年間で、合併を起因とした飛地の発生は、24箇所であるが、昭和50(1975)年から平成16(2004)年までの29年間にわたって、ただの一箇所すら合併による飛地は発生していない。
 ところが、翌平成17年から18年にかけてのわずか2年間で15箇所にものぼる、合併を起因とする飛地が生じた。

 これこそ、経路(path)依存性(dependency)としてのみ、理解できる事態なのではないだろうか。
 なぜならば、合併の際に飛地をつくる合理的な理由は、考えにくいからである。

 このように、「平成の大合併」は、合理的な判断に基づく場合、その発生を極力避けようとする飛地を、かくも数多く生じさせたことにより、不完全なる合併と断定せざるを得ない。

3、「昭和の大合併」
 「平成の大合併」に先立つ「昭和の大合併」でも、一例を挙げれば、福島県矢祭町は、“地の雨が降り、お互いが離反し、40年過ぎた今日でも、その痼は解決しておらず、二度とその轍を踏んではならない。”といわれるほどの犠牲を払って合併した町である。
 これも、非(不)合理な合併がもたらした、合併の弊害である。

4、「平成の大合併」を推進する意見とそれへの対論
 平成18年2月に答申した第28次地方制度調査会によれば、広域自治体改革を通じて国と地方双方の政府を再構築し、我が国の新しい政府像を確立する、との見地からの意見が表出された。

 これに似た文言をどこかで読んだ気がしたので、思い出したが、それは首都機能移転構想である。
 試みに、平成2年に衆・参両院で決議された「国会等の移転に関する決議」の一文を引こう。そこにはこのように記されている。

 “国土全般にわたって生じた歪を是正するための基本的対応策として一極集中を排除し、さらに、二十一世紀にふさわしい政治・行政機能を確立するため、国会及び政府機能の移転を行うべきである。”

 なるほど、おっしゃるとおりである。
 しかしこれでは、「世界に平和が来ますように」と呪文のごとくにいくら唱えても、世界的な平和が達成されないように、あまりに空疎な文言が羅列された決議である。

 それと同じものを、道州制の検討をする先述の、地方制度調査会の答申にも看取してしまう。
 それを片山善博(前鳥取県知事、慶大大学院法学研究科教授)は、“「道州制の推進」も掲げるが、誰のために、何の目的でやるのかはっきりしない。” [注4]と指摘する。

 まさにこの視点が、第28次地方制度調査会の答申からは、観取することができないのである。ここから、地方自治に至る道は、果てしなく遠いと思わせてしまう答申である。

5、経路依存性による住民の実態
 私が住む町田市は、境川を境に神奈川県相模原市、大和市と接する、都県境の東京都側に位置する公共団体である。
 その境川は、昭和40年代までは、大雨により実にしばしば氾濫をおこす河川であった。

 それは境川が蛇行していたために引き起こされたので、境川の改修工事を行ったことにより、同川の直線化を果たすことが出来た。
 その結果、氾濫の発生は防ぐことができるようになったが、神奈川県側の町田市民と東京都側の相模原、大和両市民を生み出してしまった。

 そこで、行政は、属地主義に則り、それぞれの住民に対し、改修後の境川の東京都側の相模原、大和市民、神奈川県側の町田市民双方に、それぞれの属地への、住所の異動を探ったところ、新たに東京都側に住むことになった相模原、大和両市民の38人は町田市への編入を全員が希望したのに対し、新たに神奈川県側に住むことになった町田市民のうち、相模原市、大和市への編入を希望した者はわずか3人しかいなかった。

 これは、経路依存性によって、それぞれの住む属地が変更された住民が、その意思を明らかにする場合に統一性が見られないことのひとつの例証となるのではないだろうか。

 合理性の観点からは、川を越えた行政地域があることは、極めて非効率である。
 わずかな世帯のために川を超えて、上下水道、ガス管を敷設することは莫大なコストがかかるし、ごみ収集も同じように非効率である。
 ただし、非効率を理由として強制的に、都県境を行政が変えることはできない。

 また、川を改修しなければ、川周辺に住む市民は、都県境を越えることはないものの、しかし、川は大雨毎に氾濫を繰り返し、それこそ甚大なる被害を付近の住民に与えることになり、河川改修をしないことによる経済的な損失には計り知れないものがある。

 合理性を重視し、都県境を異動することを選択した住民には、都県境を変更することに伴い、住所変更通知等少なくない不便をかけるものの、住民はそれを選択しない権利も有するために、河川改修は、行政としては合理性の観点から、当然の施策として実行された。

6、結論:合併における合理性と経路依存性
 小稿緒論で検証したように、フランスは革命から200年以上経過しても、その市町村数に大幅な変動は見られず、それを基礎づけるのは中世以来のキリスト教区である。
 英国は、フランスとは市町村数の変化における事情は異なるにしろ、小教区を基本とした基礎的自治体という位置づけは今に至るも維持しており、微塵の変化もない。

 翻って近代日本の基礎的公共団体は、今まで検証したように、江戸時代以来の集落に拘泥されることなく、合併に次ぐ合併を繰り返し、今日に至っている。
 その際、重視されたのは、合併特例債を一例とする合理性である。
 経済的誘因を合理性による判断から受け入れ、それを利用することによって合併する自治体が、日本の場合際立って多いのは、中世のキリスト教区に該当する江戸時代以来の集落がすでにして壊滅しているからでもある。

 「経路依存性による住民の実態」でみたように、人権的には経路依存性も考慮しなければならないが、合理性が日本の場合、優先されてきた。

 しかし、「平成の大合併」による飛地の発生の際立った多さは、将来に禍根を残すことになるであろう。
 なぜならば、河川改修という目に見える境界変更でさえ、それによる自治体の変更を受け入れる住民が多くはないのだから、まして、飛地のように、不可視の境界を人為的に創出させことによる自治体変更を受け入れることができない住民がいることも、当然のことだからである。

 こうして、「昭和の大合併」で失敗した矢祭町が、「平成の大合併」には踏み切らず、『市町村合併をしない矢祭町宣言』を出すのも、ごく当然のことである。
 “地の雨が降り、お互いが離反し、40年過ぎた今日でも、その痼は解決しておらず、二度とその轍を踏んではならない。”と、矢祭町は思い知らされたのであるから。

 2000年4月1日に、地方分権一括法が施行されて以降、基礎自治体では実に多くの合併が繰り返されたが、それは、中央政府や道府県からの意向を汲んでなされたとするならば、日本における地方分権とは、中央政府や道府県が主導した分権という、本末転倒の分権であり、地域主権とは程遠い分権であると断じざるを得ない。
 むしろこれを果たして、「地方分権」と言えるのだろうか、という極めて根源的な疑問を抱いてしまう。したがって、合理性と経路依存性を適度に兼ね備えた、住民自治による合併こそが、真の地方分権であると確信するものであり、そこから新たな自治政府が創世され得よう。

 ここで、いささか唐突に思われるかもしれないが、マクロ経済学の創始者ケインズに登場していただく。ケインズは、経済学、政治学は、経済的効率と社会的公正と個人的自由という質の異なるものを同時に追求する手段の学問であると考えたが、まさしく、地方公共団体の合併にもまったく同じことが言えるのではないかと、筆者は考える。

[注1]「経済気象台」朝日新聞2003年6月18日夕刊
[注2]「図書」(岩波書店、2004年10月号p.28)
[注3] https://www.geocities.jp/godwin_austin_karakorum/tobichigappei.html
[注4]「朝日新聞」2007年7月15日朝刊p.4