【箇所】一橋大学大学院 社会学研究科 総合社会科学専攻
【科目群名】総合政策研究
【科目】社会政策【講義題目名】健康戦略の転換と医療
【開講学期】2011年度 夏学期[2単位]
【担当】猪飼 周平 教授〈一橋大学大学院 社会学研究科〉
リポート課題:今日高度な高齢社会の到来の中で、いかにこれを乗り切るかという問題は日本社会の中心課題となっている。おそらく君たちが接する関連情報にもそのようなものが多いだろう。
だが、高齢社会をうまく乗り切れようとも乗り切れなかろうとも、その後も日本社会は続く。
やがて高齢化の時代は終わり、君たちはその中で生きることになる。とすれば、私たちは高齢化の時代を単に「乗り切るために」過ごすだけではなく、その後の時代に何か大事なものを残すために過ごす必要があるのではないか。以上の問題意識に基づいて、考えるところを論じて欲しい。
分量:2枚程度
リポート題目:『高齢先進国日本が提供する医療ロボットに関する所感』
尚、当HPへの掲出にあたって注の部分は省略しています。
※小稿は、当年4月27日に、筆者が虫垂の切除手術を受けた際に、看護されて抱いた、ささやかではあるもののたしかな感懐を基とするものである。
【構成】
1、河野裕子(歌人)にみる看護師(婦)との交わりのスケッチ
2、日本の看護師不足の実態
3、我が国のロボット技術
4、医療ロボットの開発
5、課題
1、昨年、歌人の河野裕子さんが御逝去された後、そこから一歌人の死をはるかに超えて、一種のムーヴメントといってもいい状況が現出されたことは記憶に新しい 。河野さんはその晩年、がんで入院していたため、看護職者を詠んだ歌がかなりの数に上るが、ここにその膨大な作品のうちから3首を引き写す。
三人の看護婦さんに身をまかせ眠りをるなり清拭のときも
清拭を手早く終へし看護婦が庭のコスモスを言ふええ咲きました
何をするにしてもしてもらふことばかりああと答へありがたうと言ふ
筆者も、上記でふれたように4月に入院した際、あらためて、看護師の懸命でありながら、なお且つたおやかさを失わない看護にほとほと感動し、病床から感謝を捧げた次第である。
筆者が入院した、町田市立町田市民病院は7対1看護を実施しているものの、それでも、しばしば鳴るナースコールに対応して看護師が病室に駆けつけるため、ナースステーションにいる看護師が常に少ない状況をみて、看護師の人数は充分足りているとは到底思われなかった。ここで、あらためていうまでもなく、看護を含む医療職は、すぐれて労働集約的産業であることが筆者に認識されたのである。
医師は当然ながら、医療職のうちその中枢を占めるものであるが、じつは入院している患者にとって、その主要なケアの担い手を勤めるのは、看護職者である 。これが、患者として入院生活を送った筆者の実感である。
それは、上記にある河野裕子さんの短歌で、看護師にくらべると医師がほとんど詠まれることがなかった事実と平仄が合っているかのごとくである。
また、注2で紹介した、患者の身体を看護師がさするエピソードと類似するトピックとして名高いものに、新約聖書において、イエスが患っている者を治癒することがひとつのハイライトを形成していることが挙げられよう が、その際、イエスは手を触れることで、患者を治癒する。同様の現象を、日本語ではいみじくも「手当」 という。
その手当の主たる担い手である看護師に関して、「現在のわが国の看護婦不足問題を保健・医療労働論にひきつけていえば、(中略)看護労働の質を高めることなのである。このことは、患者にとっては、必要なときに必要な看護を気兼ねなく受けられることを意味している」 との、至極あたりまえの指摘があるが、その際、「必要なときに必要な看護を気兼ねなく受けられる」ことこそが看護の要諦であると、筆者は文字どおり身を以てそれを知ることとなった。その際、日本人の繊細さは、看護職に相応しいのであろうというのも、筆者の実感である。
2、日本の看護師不足の実態
「看護婦不足は、発達した資本主義諸国で共通の社会問題となっている。その中でもわが国の看護婦不足問題は幾つかの独自性を示している。ここでは二つの点をとりあげる。
第一は、同じく不足だというものの、程度において格段に深刻なことである。日本の病床当たりの看護婦数は、おおよそアメリカ、フランス、スウェーデンの三分の一、イギリスの半分程度であり、同時に病床当たりの医師数もこれらの国の半分から三分の一である。このことだけからもわが国の看護婦の忙しさと精神的緊張度の強さは容易に理解できよう。」 との指摘は、いささか時宜を逸して古いものではあるものの、その態様は今に至るも大きな変化はないものと考える。
この看護師不足に輪をかけているのが、「燃えつき症候群」 によって職場を去る看護師が跡を絶たないことである。その理由は多くの場合、患者から看護師への過重な期待とその思いに応えられないことからくる看護師の懊悩と挫折にあるもののようである。そこにあるのは、看護職者の明らかな量的不足である。
3、我が国のロボット技術
衆議院議員滝実による政府への質問 にたいする答弁 で、政府は「我が国のロボット技術は、世界最高水準にあるものと承知している」と答弁していることから、少なくとも日本国政府においては、ロボット技術は「世界最高水準にある」との認識はあるもののようである 。
また、同答弁によれば、「介護に伴う様々な負担の一部が生活支援ロボットによって代替されることになれば、介護を要する者の自立促進や介護する者の負担軽減が図られ、もって我が国の人的資源の有効な活用に資すると考えている」との回答もある。
同様の見解に、「人と関係性を作れるようになれば、治療のキュア(cure)だけでなく一緒にいて癒やしを与えるケア(care)もできるだろう」 との指摘もある。
ただ現今の日本では、介護ロボットはもとより、看護職者不足を補う手段としての医療ロボットは実用化されておらず、看護職者の量的不足を補う手段としては、外国からの人材流入に頼っている面がある。その一例に、インドネシア等から看護師になるため入国する方がいることは周知の事実である 。
4、医療ロボットの開発
朝日新聞7月13日の朝刊記事によれば、診療と医療機器をセットで提供し、日本医療の海外での評価を高めて外国人患者の国内誘致につなげ、医療産業を成長の柱に育てることを政府は考えているようである 。
そこで筆者は、日本のロボット技術が世界最高水準に位置していようとも、すぐに実現されるものではないがそれでも、「その後の時代に何か大事なものを残すために」、繊細でたおやかとされている日本女性と、ますらおぶりを発揮させた日本男性を合体させたモデルを基に医療ロボットを製作し、それを国内はもとより、海外へも輸出すれば、世界の医療に日本の技術力が資するところ大いなるものがあると考えるのである。
なぜここで唐突にも、医療ロボットの実現を提案したのかといえば、ひとつは、患者は看護師にケアを依頼する際に遠慮する場合が少なからずあり、これが実際に患者となった筆者の実感であるが、医療ロボットに対してはそんな遠慮をすることなく、「必要なときに必要な看護を気兼ねなく受けられること」ができるからである。もうひとつは、猪飼先生も指摘するように、「包括ケアシステム全域に医学的知識が必要となることから、医学的知識の担い手が医師以外に拡散することになる。その際、もっとも有望な担い手は看護師」 となるからである。つまり、要請される医療ロボットは、care(手当)とcure(治療)に併せて対応できるものということになる。
さすがに、ロボットによるcureの実現は、はるかな未来に希望を託すことになるであろうが、careに関しては、たとえば、患者を風呂に入れる際の介助といった限定されたものであれば、そう遠くない将来に実現されることも夢ではないであろう。
その際、先にふれたように、日本人特有の繊細さは、医療ロボットを製作するうえでも、あるいは、設計段階においても、有効に作用するものと考える。
すでに日本は医療ロボットの実現に向けて製作途上にあろうが、この提案が受け入れられ、日本が今後医療ロボットを実用化しそれを輸出することで、高齢化が促進する先進諸国に対して、幾分かでも看護医療の充実に資することと考え、それは高齢化の先端をいく日本が世界に果たす役割の一端を担うことになると筆者は考えるのである。
5、課題
夏目漱石が、その著書『思い出す事など』二十三(青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/792_14937.html)で次のように指摘している。「医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実も葢もない話である。けれども彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼等の所作がどれほど尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独りで嬉しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。」
上記にある、「彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込」むこと、つまり、医療ロボットに「好意」があれば、尚一層患者にとっては、「彼等の所作がどれほど尊とくなるか分らない」のであるが、医療ロボットに限らず、ロボットに心を注入することに、ロボット開発の根本的な課題がみてとれる。
【参考文献】(順不同)
朝倉新太郎他編『講座 日本の保健・医療 第5巻 現代の医療と医療労働』(労働旬報社、1991年)
フレズネ/ペラン著『看護職とは何か』久世順子他訳(白水社、2005年)
池上直己『ベーシック医療問題』〈第4版〉(日本経済新聞出版社、2010年)
落合美貴子『バーンアウトのエスノグラフィー』−教師・精神科看護師の疲弊−(ミネルヴァ書房、2009年)
猪飼周平『病院の世紀の理論』(有斐閣、2010年)
夏目漱石『思い出す事など』二十三(青空文庫)