「らん読日記」2度目の登場となった、村上春樹です。
村上の著書は単行本での刊行後、2年を経ればよほどのこと、たとえば単行本を刊行した出版社に自前の文庫がないといった事情、がない限り文庫化されます。文庫にはほとんどのばあい解説がつくという日本特有の出版事情があるのにもかかわらず、面白いことに、村上の文庫本は出版社を問わず例外なく解説がありません。文庫本を30冊近く出しているほどの人気作家でありながら、そのうち一冊の例外もなく解説がつかない作家は、村上をおいて他にいません。
その本当の理由をぼくは知りませんが、文庫の解説はたいてい著者の友人の作家や評論家が担当するという日本の出版界の風習を考えれば、最も安易な理由として、村上には解説を引き受けてくれる友人がいない、という俄かには信じられない結論が導かれます。
最も安易な理由は往々にして間違っている、という例に漏れず、この場合もその理由にぼくはとうてい納得することができません。
たしかに形骸化しているとはいえ一応今でも存在しているに違いない、文壇とは最も縁遠いと思われる村上には、友人の作家や評論家はいないのかも知れません。けれど、出せば必ず売れる村上の文庫ならばだれもが、その解説を担当したくなるのではないでしょうか。それ以前に、村上春樹といえば今日の日本では最も数多くの読者を擁する作家として、その著作に言及したくなる文筆家がどれほどたくさんいることでしょうか。今月刊行された村上の最新長編小説『海辺のカフカ』(新潮社)を例にとるまでもなく、『ノルウエイの森』以降、村上の作品が刊行されるのは一種の社会現象化しています。それが証拠に、村上の解説書がなんと多く出版されていることでしょう。それは、汗牛充棟といった趣さえあるのですから。
にもかかわらず、村上の文庫に解説がつかないその理由は、おそらく村上自身がそれを拒絶しているからでしょう。なぜ、村上は文庫の解説を拒絶するのか。それは、どんな解説が掲載されるにせよ、もしも掲載されれば、その解説者の読み方=解説を、著者の村上が認めてしまうように思われるのを、ことさらに忌避したいからではないでしょうか。いわば、解説を掲載することによる、村上の“お墨付き”を嫌っているのではないでしょうか。
あらゆる小説=芸術作品は、鑑賞者の自由な解釈を保証された作品であるのですから、村上の作品も読者に自由に読まれるのは、ごく当然のことです。
けれど、村上の作品ほど多様に読める作品を生みだし続ける作家は稀なのです。それだからこそ村上は、解説本はともかくとして、文庫の自らの作品への解説を拒絶するのではないでしょうか。それが証拠に、村上は「今度はインタビューの相手に責任がある」という理由から『アンダーグランウンド』に関する書評を読むまでは、一切の自作への書評を読まなかったそうです。(由里幸子によるインタビュー『村上春樹「変化」を語る』上;1997年6月4日朝日新聞夕刊)
したがって本書にも当然のごとく解説はありません。
もうひとつ、本書を読んで強く思ったのは、いままでの作品にどこか見られた、村上特有の比喩や表現といった呪縛から、村上自身が解放されつつあるということです。
たしかに、“宝石のように美しく磨き込まれた古い型の紺色のメルセデス・ベンツで、車体にはしみひとつない。新車よりも美しい。”(p.120)といった表現は、いかにも村上らしい言い回しだと思わせますが、たとえば、p.142に見られるように“生きることと死ぬることは、ある意味では等価なのです”という文章を読むと、村上らしさと従来言われている表現からの逃遁を企図しているように思えます。そもそもこの文章は、宮本輝が『錦繍』のなかで綴っていることからも分かるように、小説家であればつい使いたくなるフレーズです。それを敢えて村上が文章にすることからも、村上の、独自性よりも普遍への浸潤を図ろうとする意図を嗅ぎ取ってしまうのです。
本書最後で「おやっ」と思わせる文章に出会いました。それは、
“これまでとは違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を。”
従来の村上であれば臆面もなくて、とても書けないようなフレーズです。それを敢えて書くことで、新たなステージに立とうとする村上の気概を、読者は切迫感をもって感得することが出来るのです。
村上ほど一作ごとに成長進化する作家は、ほかにいないのではないでしょうか。