本書は、らん丈のウェブサイト「らん丈の精神の骨格をかたち作った書物」に掲出しているように、心の琴線に触れた経済学の著作です。
書名の『人間回復の経済学』は、ジョゼフ・バジールの『人間回復の経営学』(三省堂)に由来しています。バジールは同書で、「教養」を身につけた経営者の養成の重要性を提唱しています。バジールによると、教養とは「調和のとれた人間の形成」を意味しています。その主張は、人間の全体性の回復をめざしているともいえます。ですから、本書も同様に、人間の全体性の回復を強調しているのです。
どうして、全体性なのか。それは、人間の全体性を押しつぶしてしまうような、こんにちかまびすしい「構造改革」に、本書が異議を申したてていることに拠っています。
われわれが属する資本主義社会は、いうまでもなく市場経済に依拠した社会です。その市場経済は、社会全体を競争社会へと駆り立てます。
弱肉強食、優勝劣敗の競争原理で営まれる市場経済では、弱者や敗者がつねに生み出されます。そうした弱者や敗者が辛酸をなめる痛みを、社会の構成員は共同事業として分かち合うことで、いくぶんかでも和らげようとします。これこそ、共同経済としての「財政」の役割です。
ところが、智恵を出し努力した者のみが報われる競争社会をめざす構造改革では、こうした弱者や敗者は、智恵を出さず努力しなかった者とみなされてしまいます。つまり、「神の見えざる手」に委ねる市場原理の結果は、敗者は敗者としてあるがままにまかせよと放置されてしまいます。
いうまでもなく、国民のだれもが倒産や失業を避けようと、血のにじむような努力をしています。それでもなおかつ、倒産や失業に追い込まれ、弱者や敗者になってしまうのが、現実なのです。それだからこそ、財政による社会の共同事業として、弱者や敗者を救済し、社会の構成員によって痛みを広く分かち合う必要があるのです。
つまり、構造改革の痛みは、社会の構成員である国民が、広くそして公平に、共同経済である「財政」で分かち合わなければならないのです。
にもかかわらず、日本の構造改革を支える経済政策思想は「新自由主義」と呼ばれ、1979年に始まるイギリスのサッチャー政権によって初めてその旗幟を鮮明にし、1981年誕生のアメリカのレーガン大統領に引き継がれ、1982年に政権を握った中曽根首相へと継承されたのです。
新自由主義を標榜するサッチャー政権の経済政策思想は、「サッチャリズム」と呼ばれ、労働党による社会民主主義的政策思想への対抗戦略でした。
サッチャリズムとは、完全雇用、福祉充実、国営化、労働組合との協調を機軸とするイギリスの戦後体制を根底から批判し、民営化、規制緩和、行政改革による「最小限国家」を主張します。
当時のイギリスが直面していた経済課題は、経済停滞のもとでのインフレーション、つまりスタグフレーションでした。それを克服する手段としてサッチャー政権が採用した経済活性化のための租税政策は、租税負担率を引き下げることではなく、負担構造を変革することでした。具体的には、租税負担を富裕層から貧困階層にシフトすることによって、経済の活性化を図ろうとしたのです。そのため、所得課税から消費課税へとシフトさせたのです。
その結果、たしかにイギリスでは労働生産性は生産高でも製造業でも上昇しましたが、それは投資の抑制と低い生産水準のもとで実現されたものです。
これは、サッチャー政権による生産性向上が、技術革新を機軸とする積極的な設備投資の拡大よりも、消極的な減量経営の成果として生じていることを意味しています。つまり、それはイノベーションに果敢にチャレンジした企業が報われたのではなく、容赦なく人員整理に励んだ「無慈悲な企業」の勝利を意味しています。
こうして失業や倒産が増加し、しかも租税負担を富裕階層から貧困階層にシフトしているのですから、所得間格差が拡大した結果、社会の統合に亀裂が生じてしまったのです。それに応じて、サッチャー政権は警察官の人員を大幅に増加したのにもかかわらず、犯罪件数は激増してしまったのでした。
そもそも「構造改革」とは、トータルシステムとしての社会総体の改革でなければならないのです。つまり、技術革新によって、新しい産業構造を創出しつつ、生産性を高めるのでなければ意味がないのにもかかわらず、日本が繰り返してきた構造改革は、旧来の産業構造のもとでコストを低減するだけのものに過ぎません。
では、新しい産業構造とはどんなものなのでしょうか。
ここで、過去の産業構造の変化を概観すれば、18〜19世紀にかけては第一次産業革命が展開され、農業社会から工業社会へと産業構造が転換し、19〜20世紀にかけては、第二次産業革命によって、軽工業から重化学工業を基軸とする産業構造が形成されました。
いま起こっている、20〜21世紀にかけての第3次産業革命では、重化学工業社会あるいは工業社会そのものが、終わりを告げている、つまり、脱工業化社会の到来を告げているのです。
それは、スウェーデンで掲げられている言葉で表現すれば、人間の歴史が工業社会から「知識社会」をめざして大きく変動し始めたことを指します。工業社会では、自然に働きかける手段である機械設備が、生産の決定要因となっていましたが、知識社会では、自然に働きかける主体としての人間そのものが生産の決定要因となるのです。つまり、人間の創造力が生産の優劣を決めてしまうのです。
人間の創造力を育てるためには、何よりも教育を充実させなければなりません。ブレア英首相が言うように「教育、教育、そして教育」なのです。
それには、現在先進諸国では公的教育機関に対して支出される教育費の対GDP比が最低である、この現実をまず改め、教育に対する支出を増大させなければならないのです。
つまり、日本は教育立国を目指すべきなのではないでしょうか。有為な人なくしては、人以外に資源のない日本は、朽ち果てるしかないのですから。