町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

高島俊男『お言葉ですが…4 広辞苑の神話』(文春文庫)らん読日記

2003.06.18(水)

イラスト・藤枝リュウジ、初出「週刊文春」1998年8月27日号-1999年9月2日号

 高島俊男の「お言葉ですが…」をこのらん読日記でとりあげるのは、『明治タレント教授』に続いて2度目になります。
 ご存知のように、この「お言葉ですが…」は『週刊文春』に連載されているもので、すでに単行本が7冊も出ているほどの人気エッセイですから、愛読されている方も結構いらっしゃるのではないでしょうか。
 内容は、いまさら説明するまでもありませんが、あとがきにあるように“だいたいにおいて、ことばとか歴史とかについて書いたものが多いので”す。

 「お言葉ですが…」は雑誌連載時と単行本とそしてこの文庫本と3回にわたって読むチャンスがありますが、読むならば断然この文庫版がおすすめです。なぜなら、雑誌掲載後、読者から届いた意見を単行本刊行時に収録掲載し、その単行本を読んでの意見もまた文庫本になるときにつけくわえるからです。ただ困ったことは、これは『明治タレント教授』でもふれましたが、いくらつけくわえる分が増えるとはいえ同じ本を、文庫で出すときに書名まで変えてしまうことです。ですから、この『広辞苑の神話』も単行本では『猿も休暇の巻』という書名だったのですが、内容は基本的には変わってはいません。まぁ、なにごとも商売なので致し方ないといえば、ほかにいう言葉はないのですが。

 この本でも、ぼくはじつに様々なことを教えられました。たとえば、前から気になっていた、お隣の国で使われている言葉をどう呼べばいいのかという疑問が、この本を読むことによって霧が晴れるようにみごとに解決したことは、うれしかったね。
 その言葉とは、NHKの語学講座では「コリア語」と呼ばれ、大学入試センターでは「韓国語」という名で呼ばれ、母校立教、あるいは早大や明大における言語教育科目としては「朝鮮語」と呼ばれている言語のことです。いずれも朝鮮半島に住む人々がふだん使う言葉の呼び方ですが、第2次世界大戦後、韓国と北朝鮮に国家が分裂してしまったために、そこで使われる言語を呼ぶ際、上記のように大まかにいって3種類の呼び方があります。
 けれど、同じ言葉を国によって「韓国語」や「朝鮮語」と言い分けるのは、やはりおかしい。それならば、スペイン語でもメキシコで話されているのは「メキシコ語」、ペルーのは「ペルー語」、アルゼンチンのは「アルゼンチン語」とよばなければならないし、カナダの言葉は、英語もフランス語も「カナダ語」と呼ぶのかと、高島は慨嘆しています。それは、英語のmother tongueを「母国語」と訳したことからくる不具合だと高島は難じます。すなおに「母語」と訳せばよかったのです。つまり、“言語と国とは区分けが別である。したがって「…国語」ということばはすべてぐあいがわるい、というのが”高島の考えであり、ぼくも全面的に賛成するのです。

 日本のマスコミのおかしさにも高島はかみつく。たとえば、酒は1.8リットルびんだの、3300平方メートルの邸宅だのというくせに、ゴルフとなると今でも距離をヤードで表記する。あれは英米の尺貫法ではありませんか。つまり、日本のマスコミはおかみに弱く、それよりもさらに西洋に弱いという高島の言に喝采です。

 また、電車に乗っているとしょっちゅうきく「扉が開きます」ということばも、やはりおかしい。「ふすまを開く」とはいわないように、電車の戸は横に動くのだから、「あく」が正しい。また、「扉」とは、むこうがわかこちらがわへ開く戸のことですから、電車の場合は「扉」ではなく「戸」が正しいという指摘。だから正しくは「戸があく」です。これも言われてみればもっともですね。

 あるいは英語のtakeを英和辞典でひくと、50近い訳が書いてありますが、そうするとまるでtakeには50もの意味があるようです。けれど、take の意味はもちろん一つしかありません。takeの場合は、そのイメージとしては他物(離れたところにある物)を引きよせて自己の物とする、といった意味でしょうが、それが50もの訳の羅列では一向にイメージが湧かない不都合がある。よって、主要な動詞と形容詞についてだけでも、そのイメージ描写をやってもらいたいというのも、これもごもっともですね。

 夕刊といえば、夕方配達される新聞のことですが、これもおかしいというのです。読者の皆様は、どこがおかしいか分かりますか。ぼくは分かりませんでした。これは、音訓まぜこぜにしている、「湯桶よみ」だというのです。なるほど、たしかに。それが証拠に朝刊は「ちょうかん」と呼びますよね。だから、正しくは「せきかん」と読まなければいけないわけです。ただ、この和漢癒着語は、けっこうあるのです。たとえば、寄席関係の言葉でいうと、噺家、楽屋、真打、すべて和漢癒着語です。

 また、こんな視点もあります。棒はヘンなやつであるというのです。この場合の棒とは、長音符のことです。たしかに、棒はヘンですよね。符合らしいが、句読点やカッコと違って、音をあらわしている。しからば、字かというと、固有の音を持たないのだから字ともいえない。だから、かつての東大教授辰野隆は棒を使わなかった。リンカアン、ルウズベルトと記し、その門下生だった、小林秀雄も、モオツァルト、ゲエテ、ベエトオヴェンと記したというのです。

 最後に。この稿では極力ぼくは漢字を使いませんでした。それは、ほかならぬこの高島俊男の影響をうけたからです。『漢字と日本人』(文春新書)でも高島はふれていますが、“漢字は日本語のためにあるのではない”からです。したがって、“無教養なものほど漢字を書きたがる”と高島は指摘するのです。

 以上、気がついたことを書きつらねましたが、未読の方はまずは手にとってお読みください。言葉に敏感な方であれば必ずや、この本のとりこになってしまうことでしょう。ぼくが請け合います。