町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

立教大学 経済学部 ゼミナール「現代地方財政の研究」大学での活動

2000.10.31(火)

【機関】立教大学 経済学部専門教育科目
【学科目・テーマ】ゼミナール・現代地方財政の研究
【開講学期】2000年度 通年[4単位]
【担当】野呂 昭朗 教授〈経済学部 経済学科〉
【テーマ】「2001年1月6日、1府12省庁に再編される、霞が関中央省庁への概括的視点」

[Prologue]
 今年度中に日本の国債と地方債を併せた債務残高が、650兆円に達することはほぼ確実である。つまり、日本の国土に住んでいる者は、幼児から高齢者にいたるまで等しく540万円の借金を負っていることになる。
 したがって、国はもちろんのこと、各地方公共団体では、歳出の抑制に努めているのは言を待たない。

 たとえば、大阪府守口市役所のボールペンはインクが無くなると、芯のみ支給すると言った具合に。あるいは出張時、正規の交通費を会計課から支出されても、チケットを購入する際、金券ショップでディスカウントチケットを利用して、僅かながらでも差額を稼ぐのは、民間社員・官僚を問わずいずれにおいても、ごく普通に行われている行為である。

 ここに着目した会計検査院では、公務員が実際に支出した交通費の領収証分の金額のみを交付するシステムに変更するよう監督官庁に指導したところ、それを遵守した官僚は会計課に、どんな金額の交通費を請求したのだろうか。

 正規の交通費でチケットを購入したという。ことほど左様に、公務員にとっては、予算からの支出の削減よりは、自らの懐具合のほうがはるかに大事なのである。

 ここに公務員の属性を見る思いがするのは、いささか意地悪な見方であろうか。

1. 省庁再編輪切り論
 2001年1月6日を期して、現在の霞が関における中央省庁が、1府21省庁から1府12省庁へと再編される(図1)。

 しかしその際、公務員の総定員数はほとんど変化しない。つまり輪切りのたとえのように、容積自体には変化はなく、その切り口が22通りだったものを、13通りに切るように変わった、ただそれだけのことだという見方である。

 たとえば国土交通省は、現在の運輸、建設、国土、北海道開発の2省2庁が統合して発足する(図2)。その際2省2庁から同省への総定員数の減員は、68,356人から68,248人へと僅々0.158%の削減に過ぎない。その際、国土庁の防災局が内閣府へ移管することを考慮すれば、その減員はほぼゼロに等しい。

 対して、韓国の公務員定数の削減ぶりに目を転じてみよう。1997年タイのバーツ切り下げに端を発する東アジアにおける通貨危機があった。その翌年2月に就任した韓国の金大中大統領は、「改革の苦痛をみんなで分担しよう」と訴え、財政緊縮、政治との癒着が指摘された財閥系企業の合理化、公務員定数の1割強を2年半で削減する省庁再編など、矢継ぎ早の改革を推進した。

 その結果、失業者は1年足らずで約3倍に膨れ上がった。

 しかし、韓国に「投資不適格」の烙印を押していた米英の格付け会社は1999年、金大中による構造改革を評価し、相次いで「適格」に戻した。国の借金返済の確実性や、投資の安全度を判定した結果だ。韓国経済は、1998年の5%超のマイナス成長から、99年は2〜4%の成長に回復したのである。ここに韓国経済は、不死鳥のごとく見事な復活を遂げたのである。

 顧みて、日本の中央省庁再編の実態は、国土交通省一省をみても上記のとおりであり、以て輪切りだと主張する所以である。その結果、米国の格付け会社は先日、日本の国債の格付けを引き下げた。その理由は、国の元本と金利を支払う能力が低下した、すなわち信用リスクが高まったと判断したからである。

2.過去にみる行政改革の歩み
 世紀の、それもミレニアムの変わり目となる2001年1月6日に、いよいよ日本の中央省庁が再編成される。これを以て政府は「行政改革」の総仕上げとしたいのか、それともようようのことで緒に就く思いなのか。おそらく、前者を目論んでいるのであろうが、そもそも「行政改革」という理念自体、戦後日本の歴代政権が絶えず使ってきた、手垢にまみれたものなのである。

 そもそも、1962年から64年にかけて当時の池田はやと勇人内閣のもとに設置された行政改革のための審議会、臨時行政調査会(第一臨調)が、日本における行政改革なるものの原型を作ったものと一般に言われている。それは今を去ること38年前のことである。このときは、国家公務員の総定員法の制定や、各省ともに一局削減するといったことを答申するに留まった。

 第二次の臨時行政調査会(第二臨調)(81年3月〜83年3月)も行政改革ないし行財政改革を掲げたが、そこでも日本の基本的な行政制度、たとえば財政や政府規制、金融の制度、中央・地方の関係といったものの改革にはほとんど着手しなかった。行政組織の簡素化のための政府公社の民営化や中央政府から地方自治体に移転している経費の削減、といった次元に終始したのだ。

 そして90年代に入って、いよいよ政治改革が政治の最重要アジェンダとして取り組まれ始めた。政治改革として本来達成されるべきは、近代化の過程においてつくられた中央―地方を貫く政治の集権的な行政体制を見直すことだった。

 ところが、当時の政治改革論議は、実際には選挙制度の改革(衆議院における中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への移行)に矮小化されてしまった。中央政府と地方自治体、あるいは中央政府と産業界、このような日本の近代化過程でつくられてきた政府構造そのものを徹底的に見直し、再構築することが政治改革の基本でなければならなかったのに、遂にそれは、達成されることはなかったのである。

 その理由として、一つは政治家に反省を求めなければならない。つまり、政治家は選挙では一方で行政改革を唱えながら、他方で業界利益を代弁し、あるいは地方の選挙区に帰れば、地元利益の実現を公約に掲げ、票とカネを得てきていたのが実態であったからである。

 したがって、行政改革を断行するとすれば、政治家は背後の利益、つまり、自己の選出基盤となっているものを切り捨てることによって、初めて新しい政治を行うことができるのである。

3.中央省庁体制の問題点
 2001年から中央省庁が、1府12省庁へと再編成されるが、従前の1府21省庁体制は、1955年にほぼそのスキームを確立させた。

 この諸外国に類を見ない、安定した体制を存続させることができた原因は、官僚がいかようにでも行政の中身を変えることができたことに求められる。つまり、設置法令を公権力行使の規範とするかぎり、官僚側は、既存組織のままで柔軟な対応ができることを物語っている。

 本来国民の側が、現行憲法構造下における省庁設置の問題点を明確に認識して、法律に基づく行政とは何かについて、突き詰めた論議をしていたならば、これほど安定的な中央省庁編成が存続することは、不可能だった。そして、この「安定」ゆえに、省益が拡大し固定化してきたのだ。

4.無定量な権限増殖
 1945年の敗戦とともに、日本の憲法構造、主権構造が根本的な転換を迫られ、天皇主権から国民主権へと劇的にシフトした。

 それと同時に、各省庁の設置基準と所掌事務は、国会制定法である国家行政組織法を基準法とした設置法令に基づかなくてはならないとされた。

 そもそも戦前においての省庁は、主権者たる天皇のサーバントとしての官僚と、その組織としての官庁は、勅令である各省官制通則及び各省官制を法的根拠として設置されてきた。

 日本の戦後改革は、占領国による直接統治ではなく、あくまで温存された戦前期日本官僚制に、連合国軍最高司令部(GHQ)の指導の下で改革作業を行わせる、という間接統治方式によってなされた。その結果、内務省をその求心力とする強大な官僚制機構は、新憲法が施行される前日の昭和22年5月2日まで存続した。

 しかし、憲法構造の転換とともに、新たな設置の根拠法が必要とされた。たとえば、大蔵省は戦後においても大蔵省官制に基づいて仕事を続けながら、ほぼその官制を引き写した大蔵省設置法案なるものが新たに作成され、国会に提出され、それが可決されるという形で、存続の根拠を得ていた。戦後の官庁設置の法的根拠には、こうした綱渡り的な手法が採られたのである。

 このとき最も問題になるのは、以下の点である。戦前期には天皇に主権があったので、勅令による官庁の設置と所掌事務を定めた官制をもって、国民に対して公権力を行使する根拠とすることができた。つまり設置法令をもって国民に対して権力を行使する規範とすることが、戦前期においては憲法構造上可能だったのである。ところが戦後においては、各省設置法令は、主権者たる国民が、官僚とその組織を統制するための根拠法令となった。したがって、省庁の設置法令をもって国民に公権力を行使する規範とはできないというのが、現行憲法を忠実に解釈したときの基本となるのではないか。

 ところで、戦後日本で政治と行政の大きな規範となったのは、法律に基づく行政、あるいは法治行政原理と言われるものであった。しかし実は、法律に基づく行政といった場合の「法」とは何かについて、戦後の日本の政治はほとんど無自覚に過ごしてきてしまった。  

 とはいえ、仮に設置法令を法律に基づく行政の根拠としての「法」だと考えれば、官僚の権限、あるいは官庁の権限は、制限なきかたちで常に増殖していってしまう。つまり、所掌事務規定は、「○○に関すること」といった抽象的規定なので、いかようにも解釈できる。それが日本の戦後行政体制のなかで、官僚の無定量の権限増殖を促す仕組みであるということに政治家もまた、気づいていない。

5.日本的公務員制度の内実
 日本の省庁体制が、今のような事態を生み出した基本的要因のひとつとして、公務員の任用制度が挙げられる。現在国家公務員は試験によって採用しているが、1種、2種、3種ともに政府が一括採用するのではなく、その合格者のなかから各省ごとに採用する仕組みとなっており、このシステム自体戦前と変わらない。よって、官庁という一種のイエ共同体意識は、1945年で断絶してはおらず、現在まで脈々と受け継がれている。

 1967年には、先述の第一臨調答申を受けて国家公務員の総定員法を制定した。これによって、国家公務員の総定員、各省別定員、各局別定員の上限が定められた。ここで官僚は、各省別の定員を上限で割り振ることで、その枠までの既得権が保証されたものと認識したのである。したがって、官僚において組織面や人事面において、弾力的に行政組織を編成するインセンティヴは存在しない。組織の管理にしても、スクラップ・アンド・ビルドを原則とする限り、一定の与えられた範囲内において組織編成を若干変更するのみで、行政組織を政治が動かすことはできない。

 かくの如く既得権としての組織の保証を前提に、日本の近代化過程において作り出されてきた行政特有のやり方は、「官僚制に仕切られた市場」を次々と作り上げてきた。それを業界の構成企業は不満には思わず、むしろ固定化による安定が保証されるものとして、歓迎した。さらにそこに着目した政治家との間で、政・官・業のもたれあいによる癒着が生じたのである。

 このことは、たとえば第二臨調が規制緩和を強調したなかでもあらわれた。規制緩和として電電公社の民営化が行われた。しかしその結果、郵政省に仕切られた電気通信市場が作られてしまった。つまり、第二臨調行革ではたしかに政府公社の民営化という意味での規制緩和を実現したが、戦前期来続いている、日本的行政については、楔を打ち込むことは出来なかったのである。

 次に財政面から、日本の行政を考える。大蔵省にみる予算の要求側と査定側との間の明確な緊張関係の欠如が、高度成長期以降の一般会計における拡張主義的な財政運営と、財投資金による政府の事業化に繋がっている。それは日本の場合、政府がいくら大量に国債を発行しても、消化できてしまう構造にある。

 なぜなら、大蔵省は主として予算に関わる主計局、理財局、主税局の分野に加えて、業界行政部門を持っているからである。金融業界に厳しい規制を加えているので、売れなければ国債消化を金融業界に押しつければ、済むことなのだ。加えて、大蔵省資金運用部での引き受けも行われている。

6.「霞が関」行政改革の理念
 行政改革として総合的な霞が関改革が、言われる。あるいは、霞が関を効率的な政府にする必要がある、と唱えられているが、効率的とはいったいどういうことなのか。

 また、細々とした内政事項は地方自治体に任せるべきだとの意見もあるが、注意しなければならないのは、中央政府と地方政府とを分離することが、霞が関改革の基本なのではなく、自治体がいかに霞が関に参画するか、あるいは霞が関を地方政府、市民の統制のもとにどのようにおくか、ではないか。

7.国会主導の行政改革
 行政改革は、行政府主導のもとに行われるかのような、あるいは行うべきであるかのような論調が見られる。しかし、行政改革の基本は、国会のリーダーシップの発揮を必要とする。国会は行政府から提出された改革案を審議するだけではなく、国会側から行政改革の理念を、具体的改革案とともに提起していくことが何よりも、重要である。

 それは、行政改革は国会という機関の改革としても進められるべきであって、今回の省庁再編に伴って、従来の中央省庁編成に則った常任委員会編成を徹底的に見直していく必要がある。また、国会の中に予算局や、行政を監視する部局を独自に設置することも必要となる。こうした能動的な行政に対する国会の関与が可能になる国会改革と行政府の改革は並行しなければ、新たな省庁編成や行政制度がつくられても、あくまで行政主導の結果に終わってしまう。

8.大蔵改革
 現在の大蔵省は、2001年1月6日より財務省と名称が変わり、財政は財務省が担当し、検査・監督機能と企画立案機能は、2000年7月3日に発足した金融庁が担い、現行の金融再生委員会は2001年1月5日に廃止される。これによってかたちのうえでは、財政と金融の分離は果たされることになる。

 大蔵改革は、予算改革、財政構造改革と密接不可分のものとして行われなければならない。まず考えなくてはならないのが、大蔵省は予算の査定部門と、業界行政に対する監督部門と、徴税部門の3部門を独占していることである。従って、大蔵改革としては、現在の大蔵省主導による予算編成のあり方を基本的に改めることが欠かせない。

 省庁別予算編成を大蔵省は基本としてきているが、それを事業分野別、あるいは重要政策経費別の予算査定の仕組みに改めていく必要性がある。

 同時に、大蔵省の特に理財局が管理している財政投融資部門については、財政の投資先機関の整理を含めて、その仕組み自体を徹底的に簡素化する必要性がある。とりわけ現在、予算の査定が省庁別に行われることによって、財投が省庁別予算を補完している。これを分断し財投を全体として縮小することが重要である。
 以上を前提として、大蔵省の主計、主税、さらに理財3局を予算局という形に統合し、その簡素化を図ることが求められる。

9.公正取引委員会の強化
 ある特定の分野に何らかの機能不全や不祥事が起きると、その分野を取り出して、監視機関をつくる組織改革を、改めるべきである。もし仮に、監視部門を業ごとに作るのならば、様々な分野に作る必要が出てくる。
 よって業の監視のためには、日米構造協議で米国から改革課題として提示されたように、公正取引委員会を強化することが望まれる。人員を飛躍的に増員して、業界横断的な規制を展開することが、大蔵改革のもうひとつの大きな柱とされなければならない。

10.省庁再編後の予算編成=禍根を残す財政首脳会議の存続
 これまでの予算編成は、夏に閣議了解する概算要求の基本方針と、年末の大蔵原案決定前に閣議決定する予算編成方針を、大蔵省が立案した。その上、各省庁の要求を査定するのも大蔵省が担当し、権限が集中していた。

 予算が硬直化しているとの批判を受け、省庁再編後は、民間有識者も交えた内閣府の経済財政諮問会議で予算編成の基本方針を審議するようになる。そこで概算要求の基本方針や、歳出規模などの方針を立案する。したがって、財務省の役割は「一般行政経費は対前年度比10%減」といった数字の詰めや査定に限定されることになる。

 ところが、諮問会議ができるのは2001年1月であって、省庁再編初年度の予算編成は今夏の概算要求からすでに始まっている。大蔵省はこの「空白の半年」を利用し、財政首脳会議の創設を持ち出した。
 首相官邸はそれをのんだばかりか、その財政首脳会議を、2001年に経済財政諮問会議ができるのにもかかわらず、引き続き存続させる方針を固めた。これは、予算編成の既得権を確保したい大蔵省の意向にそったもので、省庁再編の目玉ともいうべき内閣府の権限が骨抜きにされかねない事態である。

 財政首脳会議と諮問会議の線引きが曖昧なまま併存すれば、基本方針から査定まで大蔵省主導の予算編成が続く公算が大きい。

 そもそも政府が描いた行政改革の真の狙いは、官僚のシナリオがないと動けなかった政治の機能を回復することであった。よって、省庁再編では12省庁の一段上に内閣府を置き、官邸スタッフの政治任用を増やして重要政策の企画立案や総合調整機能を強めるなど、一応かたちは整うことになる。その大きな柱が、大蔵省が握る予算編成権を内閣府に移すことだった。

 だが、先述のように柱は早くも揺らいでいる。経済財政諮問会議という民間の発想を取り入れる首相主導の機関を作りながら、その発足前に、大蔵省の言いなりのままに財政首脳会議(図1)を作り、舵取りを委ねてしまったからである。予算編成を握ってきた大蔵省と与党が財政首脳会議を作り、立ち上げから全面的に介入した結果、首相はその議論を追認するような役回りとなってしまい、官邸の独自色を加えることが出来なくなり、旧来と変わらない構図を残してしまった。

11.内閣府のポスト争い
 先述のように省庁再編の目玉と謳う内閣府は、複数の省庁にまたがる政策を総合調整するために、創出されるものである。他の12省庁よりも格上で、その幹部をどの省庁が担うか決まっていないため、ポスト争いが過熱化している。「首相官邸機能の強化」が内閣府を設けた大きな理由だが、どこまで「省益」を抑えられるかが焦点となっている。

 とくに難航しているのは、事務方トップの事務次官ではなく「統括官」という局長級のポストだ(図3)。因みに事務次官には、総務庁出身で中央省庁等改革推進本部の河野昭事務局長が内定している。そして官房長には厚生省出身の江利川毅首席内閣参事官の起用が有力視されている。その下にくる統括官は7人。このうち3人が経済財政諮問会議の事務方を取り仕切る。
 一人は大蔵省出身者が起用されることが確実である。経済財政政策への影響力を維持したい大蔵省は、同省出身の坂篤郎経済企画庁官房長を内閣府の官房長にするため、7月の人事異動で経企庁に温存したものの、官邸側が強く推す前出の江利川氏の官房長起用が有力視されるなか、「官房長と統括官の両方を大蔵省出身者が占めることはあり得ない」との見方から、坂氏が統括官となる方向だ。内閣府に組織が吸収される経済企画庁は、そのまま諮問会議の事務局に移り、統括官の独占を考えていたが、これにより経済産業省と改称される通商産業省とともに、3人の経済財政担当者のうち、その一角の確保へと戦略を変更せざるを得なくなった。ここに大蔵省と、経済産業省と名称が変わる通産省と、経済企画庁とのポスト争いは、民間人の登用にもなお含みが残されているものの、ほぼ終止符が打たれたと言ってもよい。

 官邸側も、こうした省益優先の動きに手を拱いているわけではない。統括官以上のポストに就く官僚は、出身省庁には戻さないことで、内閣府への帰属意識を高めようとしている。しかしこの発想こそが、省益の確保に走る官僚の再生産に手を貸すことにはならないだろうか。

12.人事・組織改革
 人事院は、7月12日に1999年度の年次報告(国家公務員白書)を国会と内閣に提出した。現在、各省庁に配置されている政治家は大臣と総括政務次官、政務次官の併せて最大3人。それが、副大臣制導入で、一番多い内閣府では政治家が8〜9人になり、他の省でも最低5〜6人に増える。それに合わせて、今後の官僚の役割について1章を設けた。そこで政治主導による政策立案の補佐役に徹する必要を述べる一方で、「自律的な公務員人事」が高いモラルを保つとして、人事への政治の介入を避けてきた「霞が関の伝統」擁護の主張を滲ませている。

 上の記述を見るまでもなく、また先述したように日本の国家公務員は各省が個別に採用し、退職後も天下り先を確保するなどして生涯に渡って面倒を見る構造がある。従って省庁再編に伴って、政府の一括採用へと公務員の採用システムを変えることが必要である。同時に、局長級以上の高級幹部は、政治的任命職に変更すべきである。この政治的任命職とは、政治家を局長に据えろというのではなく、政権が外部から有能な人材を登用するとともに、フランスのように官僚団のなかから政治的任命職を登用することである。

13.「行政評価法案」
 行政評価法案は、「一度動き出した政策は変えられない」と言われる役所の体質を改めるため、省庁再編を機にまとめ、来年の通常国会に提出される。

 法案では、政策評価制度の導入の目的として「国民に対する行政の説明責任の徹底」を明確にし、対象機関として再編される1府12省庁に加え、特殊法人も挙げている。各機関には政策評価の実施状況を毎年国会に報告することを義務付ける。また、政策評価全般を所管する総務省の権限として、各省庁の政策を総合的に評価することも記し、総務省が他省庁の政策評価に関与できる法的根拠を明確にする。

 予算に関連しない政策評価であれば「なんのための制度か」と批判を受けないように、総務庁が2日に開いた行政評価法案作成のための会合で、参考人として呼ばれた大蔵省の主計局次長は「日本の予算は政府と与党で決めている。政策評価の結果を予算配分に機械的に反映するのは難しい」と難色を示した。

 そもそも無駄な事業をやめるため予算査定に政策評価の手法を採り入れることは、財政再建を求める大蔵省にとっても望ましいはずだ。だが、事情は違う。「行政評価局」が内部に新設される総務省(図4)は、総務庁と自治、郵政両省も束ねる巨大官庁となる。政策について各省庁に改善勧告でき、それでも見直されない場合は首相に意見を具申できる。これによって予算査定の権限を背に、他省庁に「にらみ」を利かせていた大蔵省は、一省支配維持のために、懸命に抵抗する構図がそこに見える。

 先に述べた国土交通省は、国の公共事業の約8割を占める巨大権限を有した官庁となる。中核となる建設省は既に、公共事業への批判を受けて2年前に自前の再評価基準を定めている。したがって、政策評価制度には「専門知識もない、ほかの省によって、評価のやり方にタガをはめられても困る」と、警戒心を隠そうとはしない。

14.副大臣会議が骨抜きの恐れ
 来年1月の省庁再編と同時に導入される「副大臣」をどう位置付けるかの議論が、12日に開かれた政務次官会議で本格的に始まった。来月上旬に報告書をまとめる。ただ、事実上の閣議といわれてきた事務次官会議については踏み込んで議論しないことになり、副大臣会議も、「盲腸」と揶揄される政務次官の場合と同様、政治主導が骨抜きになる恐れがでてきた。

[参考文献]
新藤宗幸『真の行政改革とは何か』岩波書店、1997年。
新藤宗幸『地方分権』岩波書店、1998年。
大島通義・神野直彦・金子勝『日本が直面する財政問題』八千代出版、1999年。
『朝日新聞』1999年7月4日朝刊「脱不安の経済学」。
『朝日新聞』2000年7月4日朝刊2,13面。
『朝日新聞』2000年7月13日朝刊4面。
『朝日新聞』2000年8月17日朝刊1,2,3面。
『朝日新聞』2000年8月18日朝刊3面。
『朝日新聞』2000年8月26日朝刊1,2,7面。
『朝日新聞』2000年9月12日夕刊2面。
『朝日新聞』2000年9月30日朝刊1面。
『朝日新聞』2000年10月3日夕刊6面。
『朝日新聞』2000年10月9日朝刊1,2面。
『朝日新聞』2000年10月13日朝刊4面。