【箇所】慶應義塾大学 文学部専門教育科目《面接授業》
【開講学期】2016年度 週末スクーリング
【科目】社会学(専門)「生と感情の社会学」[2単位]{定員50名}
【担当】岡原 正幸〈慶應義塾大学〉教授、高山 真〈立大助教〉
【課題】自分史(アートベース・リサーチ、ライフストーリー)
【分量】3,000-5,000字程度
1、幼少期(0〜5歳)
私は、1959年に町田市で生まれました。二人兄弟の兄に当たります。
父母はともに、群馬県藤岡市の生まれ、育ちですから、町田とはなんのゆかりもなかったのですが、縁あって、私が生まれる前年に町田に引っ越して来て、そこに私が生まれたのです。
幼少期は、ここに記すような出来事は、特にありませんでした。
2、小学生(6〜11歳)
地元の幼稚園を経て、公立小学校に入学しました。ごくおとなしい、したがって、なんら目立つところがなかった小学校生活でした。小学校に通うことは、特別に好きだったわけでも、嫌いだったわけでもなく、淡々と過ぎた6年間でした。
書くべきことが、何一つとして思い浮かばないことに、歯がゆい思いもいたしますが、そのような事実がなかったのですから、仕方がありません。
学業成績は、中の中といったところでしょうか。
何から何まで、中庸の小学生でした。あたかも、via mediaを絵に描いたようなものでした。
学校が終わり、帰宅後、寝そべって本を読んでいる時が、至福の時間という、怠惰な小学生でもありました。本は、小学校の図書室で、主に偉人伝を借りて読んでいました。
3、中学生(12〜14歳)
中学校も、地元の公立中学校でした。そこでの記録としては、3年間無遅刻無欠席をとおしたことが挙げられますが、見るべきものはそれぐらいで、中学校でも平凡にして中庸な生徒でした。
たとえば、生徒会活動には、なんの興味もありませんでしたし、クラブ活動は、卓球部に入ったものの、センスがないのですぐに退部しました。その後、地歴部に入りましたが、同部においても非活動的でした。
中学生になってはじめて、そのほとんどが小説でしたが、文庫本を読むようになりました。時あたかも、遠藤周作のぐうたらシリーズが流行していたこともあり、それに感化されて、ユーモア小説を読むようになりました。
ユーモアといえば、筒井康隆の小説もよく読んだものです。
そのため、高校の受験勉強は、まったく捗らず、第一希望の私立高校の受験は落第し、第二希望の地元の都立高校に入学することになりました。
4、高校生(15〜17歳)
これまた地元の、都立町田高校に、入学しました。同校の学力程度は、中の下といったところでしょうか。大学への進学実績は、はかばかしくなく、東大には10年に1人が進学すれば御の字といった程度でした。現在は、東京都教育委員会選定の進学指導特別推進校に指定されたため、ある程度改善されてはいるようです。
その高校での生活も、じつに怠惰なものでした。部活動には関わることなく、もっぱら学校の帰途にある市立図書館に寄っては小説を借りて、それを週末に読むのを何よりの楽しみとしておりました。その小説とは、「第3の新人」といわれた、安岡章太郎、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三、阿川弘之といった面々で、世界文学とは無縁の、正しく「小説」でした。
受験勉強には、相変わらず身が入ることはなく、大学受験は、私立大の文学部ばかり受け、辛うじて受かった立教大学文学部キリスト教学科に入学することになります。
5、大学生(18〜21歳)
上記学科の受験理由は二つあり、その一つは、偏差値が立教の文学部では最も低かったため、合格可能性が最も高かったからであり、もう一つは、先述した遠藤周作のユーモア小説は卒業したものの、『沈黙』等のキリスト教を題材にした小説を読んだときに、その背景にあるキリスト教を知らなかったので、理解が進まなかったことが挙げられます。そこで、まったく知らないキリスト教を少しでも知りたいと思ったのです。
ちなみに、わが家はキリスト教とは何の関係もない家庭だったため、親はよく入学を許したものだと、今になってみると思います。
にもかかわらず、大学に入っても特に勉学に励むわけではなく、将来は教職を希望し、教職課程には登録したものの、大学の帰りに寄席に通ったり、JAZZを聴きに新宿のPit Innに行ったり、気ままな学生生活を送っていました。
4年生になって就職活動を始めたところ、そんな学生を採るところなぞあるわけがなく、公立校の教職試験には早々に落ち、私立の中高の教員採用にも落ち続け、もう一方の希望職種であったマスコミも落ちてしまい、やむなく、塾講師となったものの、研修2日目にして退職を決意し、なぜか、落語家に進むことをひらめき、翌日、師匠となる三遊亭圓丈師のもとへ弟子入り志願にうかがうことにしたのです。
先述のように、落語が好きで寄席には通っていましたが、まさか自分が落語家になるとは、それまで夢想だにしていなかったのに、よくそんな決断をしたものだと思います。この事情は、他人からみると不可解でしょうが、本人にとってもじつは、不可解であります。けれど、当人は至って真面目に決めたのです。
6、落語家修業、前座(22〜27歳)
大学卒業の翌月、1981年4月に圓丈師匠から入門を許され、前座修業が始まりました。
前座修業は、読者にとっては興味のあるところでしょうが、本人にとっては、これを説明するのは相当に困難です。なぜならば、師匠と接している時間が、すべて修業だからです。前座修業に、マニュアルがあるはずもなく、まして定式はありません。
われながら不思議だったのは、前座修業にさほど違和感を覚えることなく、適応してしまったことでした。予め、人生のプログラムに組み込まれていたかのように、すんなりと入っていくことができたのです。
師匠の御自宅は、足立区にあったので、町田から通えないこともなかったのですが、仕事柄夜遅くなることが多いため、師匠の勧めもあり、北千住に引っ越し、生まれて初めて一人暮らしをすることになりました。
それからは、ほぼ毎朝、師匠のお宅に行き、掃除をしたり、師匠に落語の稽古をつけていただいたりした後は、寄席に行き、楽屋修業に明け暮れた5年半でした。
その間、食事は原則として師匠や先輩方が面倒を見てくれたので、「食う」に困るということはありませんでした。
7、二ツ目時代(27〜37歳)
東京の落語家は、前座修業を終えると、二ツ目に昇進します。そうすると、前座のようにほぼ毎朝、師匠のお宅に行かなくてもよくなります。
寄席のプログラムは、ひと月を上旬、中旬、下旬に分け、それぞれ、上席、中席、下席と呼んで10日毎に入れ替わるのですが、その初日に当たる、1日、11日、21日の朝は師匠のお宅に行きます。それ以外は、自由に過ごせるようになるのです。
裏を返せば、自分で食い扶持を稼がなくてはならなくなるのです。といっても、たかが、二ツ目です。週に一回仕事があればいいほうです。夢と時間は有り余るほどありますが、仕事はありません。それでも、なんとか食べられるのです。落語家になるような人間は、根が楽天的なので、この境遇にさほど危機感を持つことなく、自分の落語会を企画しては、そのチケットを伝手を頼って何とかして売りさばき、それで生計を立てるのです。
それが、10年つづいて、真打に昇進しました。これは、標準的なもので、特別長くも短くもありません。またまた中庸の、二ツ目ということになります。
8、真打昇進、交通事故前(37〜40歳)
1996年3月に、落語協会の真打に昇進いたしました。そこから、芸名は「三遊亭らん丈」となります。
真打昇進披露といって、各寄席(上野鈴本演芸場、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場)を順次興行いたします。その前に、私はホテルオークラにて、真打披露宴を催しましたので、結構な散財でしたが、なんとかなるものです。
9、交通事故後(40〜43歳)
真打になって3年後、その頃住んでいた墨田区の京葉道路路上にて、私が自転車を運転しているさなかに、自動車に撥ねられるという交通事故に遭いました。膝の下にある腓骨を折ったのですが、レントゲンを撮ったところ、さいわい単純骨折だったため、手術を施すこともなくその夜は鎮痛剤を服用して、病院のベッドで寝ていました。
しかし、それでも骨折ですから、痛みのあまり、満足に寝ることはできませんでした。
そこで、生まれて初めて、わが人生の来し方行く末に、柄にもなく真摯に思いをはせることとなったのです。
そのとき、天啓のごとくに思い浮かんだのが、内村鑑三の『後世への最大遺物』にある「われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりとも善くして往こうではないか」という文言でした。
落語家なのですから、お客さんに笑っていただいたり、感動させたりすれば、それが落語家なりの「世の中を少しなりとも善くして」いることには違いないのですが、もっと直截に「世の中を少しなりとも善くして」から、往かなければ、せっかく与えられた人生を全うしたことにはならないのではないかと思い詰めたのです。そんなことを思ったのは、交通事故に遭った当夜という状況からナイーヴになっていたせいでしょうが、そのように思ってしまったのですから、仕方がありません。
そこで、さて、具体的にどうしたものかと考えたのです。今になってみると、なぜそんなことを思いついたのか、落語家になったときと同じように、よくわからないのですが、政治に携わってもっと住みよい世の中に変えたいと思ったのです。
そこからが、また、速かった。当時は、前述のように、墨田区に住んでいたのですが、そこに地縁はないので、生まれ育った町田に帰って、そこで市議会に立候補しようと考えたのです。
事故に遭ったのが、1999年4月。その時点での次回の市議会議員選挙は、2002年2月。それからの3年弱で、当選に必要な2,000票を取らなければならない。定数が減れば、それ以上取らなければ当選は覚束ない。
だいいち、落語家でありながら立候補して、当選できるのか。多くの有権者は、落語家が遊び半分、売名行為で立候補しているのではないかと、誤解するのではないか。
そもそも、政治や財政のことを知らないで立候補して、それで、有権者の理解は得られるのか。大学で政治や財政を学ばなければ、立候補してはいけないのではないのか、と思い詰めて、母校である、立教大学法学部政治学科と経済学部経済学科の3年次編入学試験を受験したところ、経済学部に受かったので、翌2000年4月、同学部に編入学しました。ゼミナールは、「地方財政論」を履修しました。
2001年には、町田市に戻り、立候補をするための準備をしながら、大学にも通い、2002年2月に執行された町田市議会議員選挙に立候補したところ、目標の2,000票はなんとか獲得し、40位となりました。前回までの選挙であれば、最下位ながら当選できたのですが、議員定数が36人に減っており、当選票数に700票足らず、落選の憂き目を見たのです。
10、落選後(43〜46歳)
選挙に落選した後、サバサバとしたもんで、従来の落語家生活に戻りました。ただ、捲土重来を期して、4年後の選挙を見据えての落語家生活です。
そんなある日、信濃町の慶應義塾大学病院に入院した、立教の先輩の御見舞いに行ったところ、その先輩はまだ入院していなかったのです。その翌日の入院だという。
けれど、わざわざ町田から信濃町まで来て、そのまま帰るのはもったいない。ふと、神宮球場で東京6大学野球の最終節早慶戦が行われているのを思い出し、何の気なしにその観戦に行ったのです。
それが、優勝を決する一戦であることを観客席に座った後に、知るところとなりました。初めて間近で見る、早慶戦。その独特の雰囲気に浸り、誠に遅ればせながら、早稲田でも慶應でも、どちらでもいいから、その学生になりたいと思ったのでした。
そこで、両校の受験情報を調べたところ、早大社会科学部の学士入学試験の出願期間が、早慶戦を見に行った11月の22日から12月3日に設定されていることを知りました。
あわてて必要書類を整え、それに出願し、翌年の2005年におこなわれた試験に無事合格し、4月からは、あこがれの早大生となったのでした。
早大に通いながら、翌年の町田市議会議員選挙への準備をし、何とか、3,248票を獲得し、無事当選しました。
11、市議会議員(46歳〜今まで)
いつまで市議会議員でありつづけるのか、それは選挙の洗礼を受け続けなくてはならないこともあり、現時点ではわかりません。
また、元来の職業である落語家は天職だと思っておりますので、落語家を辞めたわけではありません。落語を忘れない程度に、細々とながらつづけております。
来し方を振り返って、実感として蘇ってくるのは、人生はタイトロープの上を歩いているようなものだ、ということです。
様々な局面でしばしば決断を迫られ、あるいはテスト(試練)を受けさせられ、それに失敗すると、奈落の底とはいわないまでも、今ある安定から振り落とされてしまう。テストに合格しても、その安定が続くのは次のテストまでのほんのわずかな期間、これは落語家としても、議員としても常に感じていることです。
そして、禍福は糾える縄の如し、といいますが、そもそも成功か失敗か、その当座には、見極めにくいというのが実感です。