『都市』第52号・2016年8月
襟立てて花見の列に入り行けり
片想ひ独活の天ぷら噛みしめて
スカイツリーエレベータに蝶も乗り
短めに髪切らせゐる薄暑かな
遠くからジャズ聞こえくる麦の秋
襟立てて花見の列に入り行けり
片想ひ独活の天ぷら噛みしめて
スカイツリーエレベータに蝶も乗り
短めに髪切らせゐる薄暑かな
遠くからジャズ聞こえくる麦の秋
『都市』第51号での「趣味燦燦」欄に掲載されたものを、転載して掲出いたしました。
趣味を広辞苑(第二版補訂版)で引くと、
1、感興をさそう状態。おもむき。
2、美的な感覚のもち方。このみ。
3、専門家としてでなく、楽しみとしてする事柄。
と記されています。
いかにも、広辞苑らしい面白みに欠ける語釈ですね。そこで、新明解国語辞典(第七版)にお出ましを願うと、次のように記されています。
1、そのものを深く知ることによって味わえる、独特の良さ。
2、〔利益などを考えずに〕好きでしている物事。
3、〔選んだ物事や行動の傾向を通して知られる〕その人の好みの傾向。
わたしの場合、俳句はまさしく新明解国語辞典の語釈にあるとおりの趣味なのですが、小稿では、ジャズを採り上げます。
楽器は一切できないので、専ら聴くばかりです。聴くうちにわかってきたのですが、多くの方が指摘するように、ジャズとわたしの本来の職業である落語は親和性が高いのです。
どこが似ているのかといえば、どちらも、テーマをおさえれば、あとは自由というところです。たとえば、「千早振る」という落語がありますが、これは、ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは、を珍妙に解釈する噺というテーマをおさえれば、あとは演者の自由です。ジャズも同じで、同じ曲でも、プレイヤーによって全く異なる曲調となることがしばしばあります。
その際、双方で重視されるのが、即興性です。ジャズも落語もお客さんに左右される要素が、非常に大きく、会場に反応のよいお客さんが多ければ、演者は乗せられて、実力以上の力を発揮することがありますし、その逆となれば、惨憺たる結果と相成ります。
それは、俳句とも通じるところがあって、荻野雅彦が、「『孤独』ほど俳句にとって縁のない言葉はないのではないか」というように、落語もジャズも、そして俳句も、そこに「座」がもうけられなければ、面白味のないものとなってしまいます。
マスクしてなほ美しく魅入るなり
山葵田の風に吹かれてガムを噛む
春浅し帽子いくらか深く下げ
薄氷を踏んで確定申告へ
見上げたる額に椿落ちきたる
寒星やメニューに見入る老夫婦
戦絶えざるどこまでも歩く熊
哲学するやうにカツ食ふ師走
人参と長さ同じや妻の足
成人の日や和服着てバスに乗る
トーストにバター多目に秋の朝
足袋だけは自分で洗ふ里祭
亡き父を傘に入れ行く野路の秋
新米をまづ愛でたのち箸運び
彼方なる軍艦認む北時雨
五十路迎へ親の小言や冷奴
盆踊り近づくこともなく踊る
必ず手を上げをる妻の昼寝かな
眞夏なりネクタイ締めて教会へ
トイレの戸開ける子のゐる夏休み
蚊帳出づる地獄の顔に秋の風
上記の句は加藤楸邨昭和十四年の作、『颱風眼』所収。
この句を山本健吉は『現代俳句』にて、「房事の後の、何ともいえない虚脱したような自己嫌悪の気持ちを言い取ったのだ」と記している。つづけて健吉は、「「地獄の顔」とはもちろん自分の顔を客体としてとらえたのであって、女の顔ではない。「自分の中にひそんでいるみにくい獣」をその時の顔に感じ取った」と記す。
それをとらえて岸本尚毅は、「「地獄の顔」にかんするかぎり、それが「房事の後」でなければならない必然性があるかどうか、私には依然わからない」(『本の旅人』平成十二年三月号)と指摘している。
なるほど、その後段で、岸本は「「房事」を連想させるのは「蚊帳」であろう」と記しているものの、「「房事の後」でなくても、種々の苦悩や鬱屈によって人が「地獄の顔」になることはあり得ると思う」と、ありきたりな解釈に片寄せてしまう。
ここはやはり、健吉がいうように、「房事の後」ととらえるのが自然と思われる。いずれにしろ、健吉がいうように「俳句でなければとらえられない情景」を詠んだものであり、心に残る一句である。
自らの美しさに耐へ梅雨に入る
打水をかはして歩く猫二匹
暁に幾度も起き梅雨の入
さくらんぼ吐き出す種も美しく
シャツのボタンあまなく外し夏逝かす
真情を打ち明けたくて黄水仙
霾(ばい)の中自転車をこぐ墓参かな
卒業式ついつい浅く腰をかけ
鳥帰るひとに云へないことが増え
一切れの羊羹の味麦の秋
親の悪い癖ばかり似て年男
同窓会マスク外さず受付す
ふと足の爪剪り初(そ)むる木の芽かな
日本人小粒となりぬ春寒し
洗濯もの干しゐて薔薇の芽に見入る
町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打