芥川賞をはじめ幾多の文学賞を受賞し、文名を馳せている作者ですが、一般読者にも広くその名を認知させるきっかけとなったのが、谷崎潤一郎賞を受けたこの、『センセイの鞄』でした。
先ずは、未読の方のために梗概を記しました。
【『センセイの鞄』梗概】
大町月子という名の教え子と、松本春綱という名の高校国語科の恩師が、同じ駅を利用する、その駅前の一杯飲み屋で隣り合わせに偶々、ふたりは座る。
そこから、この小説は始まる。
彼女と彼がお互いに、「センセイ」と「ツキコさん」と呼び合う関係になるには、さほどの時間を必要とはしなかった。
そのとき、ツキコさんは「じきに四十歳にもなろうという」37歳の未婚女性。
「センセイ」とは、「歳は三十少し離れている」のだから、センセイは70歳前後か。
「センセイ」の夫人スミヨは、「十五年ほど前に逃げた」し、子どもは独立したので、センセイは現在独居生活を営んでいる。
ふたりは間もなく、「茶飲み友達ならぬ酒飲み友達」となる。
面白いのは、ツキコが勘定の払いに潔癖なこと。作者はそれを強調する。
たとえば、ふたりが再会し、馴染みとなる居酒屋「サトルさんの店」での支払いは、3回目からは、お互いが銘々払いをするし、同級生とバーに行ったツキコはそこでも、勘定の半分を払おうとする。
その同級生とは、高校生のときに一緒に映画を見に行ったのだが、そこでもツキコは自分の入場料を払おうとした。
その「酒飲み友達」の関係を2年続けたのち、「センセイ」が「一世一代の決心」をし、ツキコに恋愛を前提とした「正式なおつきあい」を申し出る。
兼ねてセンセイに恋情を抱いていたツキコはもちろんそれを即座に、受け入れ、ふたりは「正式なおつきあい」を始めて3年目に、「センセイ」が死去することによって、その関係は自然に解消される。
【『センセイの鞄』の魅力】
作家の沢木耕太郎が、朝日新聞夕刊に毎月1回連載している映画評論『銀の森へ』で今月(2005年2月7日掲載)採り上げたのは、「ビフォア・サンセット」でした。そのなかで、沢木はこんなことを言っている。
“たぶん、この映画に対する好悪ははっきり分かれるはずだ。そして、これを面白いと感じる人には、この二人と似たような会話を交わしたことがあるという人が少なくないような気がする。似たような会話、つまり、あまり状況を決定的なものにしないように配慮しつつ、相手の現在の状況と自分に対する思いを察知しようとする、いかにも都会的な会話だ。
しかし、確かにそれを「都会的」な会話と呼ぶこともできるが、同時に極めて「不自由な」会話と言うこともできる。まるで、手を使わないサッカーのように不自由だ、と。”
まさしくこの、会話の「不自由感」こそ、『センセイの鞄』の醍醐味といえる。
この「不自由感」は、なにも感情の発露を抑制した会話にのみとどまるものではなく、先ほど指摘した、過度に勘定の支払にこだわるツキコの金銭感覚や、なかなか同衾しないふたりの関係にも、反映される。
こうして作者は、読者にもどかしい感覚を執拗なまでに刷り込み、最後に、一方の主人公に死をもたらすことによって、ふたりの関係に大団円を与える。
ここにいたり読者は初めて、小説のなかで一貫して煮え切らない感情にさらされ続けたのは、カタルシスを与えるために、作者が用意した「不自由」という名の趣向だったことに、気づかされることになる。
【『センセイの鞄』で書いてほしかったこと】
ツキコさんと、センセイは、再会してから5年の歳月を過ごすのだが、そのうち、「正式なおつきあい」をしていた3年間にはほとんど触れることなく、筆は擱かれてしまった。
ぼくは、むしろその3年間のふたりのあれやこれやをこそ、知りたいと思った。
たとえば、居酒屋での支払いは、やはり銘々払いを続けたのだろうか。あるいは、携帯電話を使うようになったふたりは、どんなメールを打ち合ったのか、といったことを、是非とも知りたいと思った。