町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

志賀直哉「雨蛙」らん読日記

2005.04.07(木)

1、背景
 この作品は、大正12年12月に執筆され(『小僧の神様・城の崎にて』(新潮文庫;高田瑞穂の解説による)、その翌月発行の「中央公論」(大正13年2月号)に、掲載されました。

2、本作品の読み方
 この作品を、1960年代以降のフランス系構造主義者による用語として登場した〈物語〉を、媒介に読んでみます。
 ちなみに、この〈物語〉とは、英雄叙事詩や日本の物語文学といった作品のみならず、神話、伝説、民話、戯曲、絵画、映画等に共通してあらわれる「表象的な機能をもつディスクール(discours:言説、言述)」を指す概念のことであり、これを対象とする科学が《ナラトロジー;narratology》と名づけられました。
 《ナラトロジー》とは、『デカメロンの文法』(1969年)を著したT.トドロフによれば、「ナラトロジーと呼ばれる物語の科学」と説明していることからも分かる通り、〈物語〉を科学として認識する視座です。
今回はその《ナラトロジー》を援用して、本作品を読んでみます。

 そのトドロフは、物語を語辞相、統語相、意味論相という3つの相に分け、それぞれが表象機能(物語の視点)、連辞機能(物語の諸部分の相互関係)、範列機能(物語のテーマ)に対応すると指摘しています。

3、なぜ上記の視座をもって、この作品を読むのか
 それは、作品は作者が意図するか、あるいは意図せざるかを問わず、完成した作品のなかに、作者が意識せずとも、意識下の思いが吐露されていると、強く認識するようになったためです。
 ここで、牽強付会との謗りを承知で引用すると、哲学者S.K.ランガーは、“創作されたものは、構成され形づくられた、新しい人間経験の仮象である”(「芸術とはなにか」(岩波新書)と述べていますが、私見にまさに照応している記述と、思われます。

4、土着性=封建遺制が色濃く残る舞台設定
 この作品の舞台は、“住民は大方土着の旧家”で構成される、Hという小さな町です。
 この町では、姓が五つか、六つに限られるために、土地の人びとは、道角の誰、藪前の誰、というふうに呼び慣わしていますが、たとえ、その藪が十年前に伐り開かれようとも、依然としてそのままに呼んで、他の同姓から区別しています。
 このことから、Hという町においては、個人が確立していない農村社会から個人を主体とした都会(=近代社会を形成する重要な一因)への移行が、いまだ行われていないことが分かります。
その現状を“藪”を表象として、あらわしているのです。
 この思いをより強固にするのが、その直後の、“町には昔から一つの組合があり、それで互に助け合った。”というセンテンスです。
 ここには、地域共同体を利益共同体としてではなく、運命共同体として認識し、その成員がともに助け合い、相互扶助の精神を発揮することをなんら疑うことなく、それを維持存続させようという固陋なる気概が見て取れます。
 その後段に、こんな記述があります。
“仕事をする。失敗する。再び帰って来る。それでも、町の人々はその家を潰さぬだけの助力を惜しまなかった。”
 まさしく、ここに、後に不義を働く妻を温かく迎え入れる主人公の思いがメタファー(隠喩)として、示されているのです。

 その主人公の名前は、“賛次郎”と命名されています。これは、賛意を示すことを表わす、直喩です。
 直喩といえば、主人公の親しい友人は、竹野茂雄という姓名です。
“竹”は生命感の直喩であり、事実その友は活動的であり、この名前はまさしく、生命感あふれる友人にこそ相応しい姓であり、その名前はそれを補強するかのように、文字通り“茂”るのです。
 そのうえ彼の号は、“青葉”といった具合に、どこまでも、作者はこの友人にエネルギーを注ぎ込みたいのです。

 妻に間違いの起こる日は、“いやに生温かい風の吹く日”であり、また、そうでなければいけないのです。
 なぜならば、生温かいのは、因習が続くその生ぬるい土地柄の直喩でもあります。
 その際、妻(せき)は、地理的な作用として夫のもとから離れていくにあたって、夫への裏切りを暗示するかのように、“一度も振り返らず、段々に遠ざかって行った。”です。

5、帰途の夫婦
 妻が不貞を犯した翌日の、帰郷での天候も示唆に富みます。
 昨日までの、生温かい天候とは打って変わって、“向いになると風は寒かった”のです。
 これは、二人がむしろ“生温かい”関係ではないことを指しています。
 それをまた、元の関係に戻すために、賛次郎は、竹野の影響のもとに買い求めた小説集と戯曲集を本箱から抜き取ると、焼き捨て、それが成就すると、“漸くほっと”するのです。

※附記
 富士川義之(駒澤大学文学部英米文学科教授)が、「図書」(2006年4月号)に、『翻訳の魔力』と題するエッセイを寄せており、そこに、こう記しています。
  “凝った、複雑で美的感覚のあふれる文章を読むことが好きである。どうして好きになったかを振り返ってみると、年少の頃に谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川龍之介、萩原朔太郎などを読みふけった読書経験まで遡ることができるだろう。同時期に島崎藤村や志賀直哉を読むことは読んだが、あまり親しみを感じなかった。 ”

 ここに、志賀直哉の作品の特徴のひとつが剔抉されています。つまり、志賀の小説においては、複雑で美的感覚にあふれた文章は、極力排除されているからです。