この本は、佐野洋子の『百万回生きたねこ』とともに、現代日本を代表する、絵本です。
したがって、すでに本書をお読みになった方は、多数いらっしゃるでしょう。
けれど、いいえまだ読んでいないという方がいらっしゃったら、今すぐ本屋さん、または図書館に行って、本書をお読みになることを、強くお奨めします。
なに、ほんの5分もあれば、読み終えてしまいますから、先ずは本書を手にお取りください。
手に取ったあなたは、その特異な絵に驚かれ、本を読み進むうちに、どんどん本に引き込まれ、読み終えた後、あまりに重く、そして深い思いに囚われている自分を見出すことになるでしょう。
本書の背景は、昭和30年森永乳業徳島工場で製造されたドライミルクに含まれていたヒ素によって、2万人以上の乳児が身体に甚大な影響を及ぼされた、森永ヒ素事件です。
この事件では、昭和32年当時、125名の乳児が死亡してしまったのです。
“ぼくははせがわくんが、きらいです。はせがわくんと、いたら、おもしろくないです。なにしてもへたやし、かっこわるいです。はなたらすし、はあ、がたがたやし、てえとあしひよろひよろやし、めえどこむいとんかわからん。”
はせがわくんは、ヒ素のために、こんな身体になってしまったのです。
そのははせがわくんを、本書の独白者は、上記のように、はっきりと、きらい、というのです。
身体にしょうがいを負った方に、このような物言いをするのです。
そこが、新鮮でした。
なるほど、子どもはこう思うのが、むしろ、自然なのかもしれません。
けれど、そのきらいなはせがわくんを独白者は、どうしても、無視することはできないのです。
それどころか、きらい、きらい、と言いながら、独白者は、いつしか、はわがわくんを至上の存在として、受容するのです。
ぼくは、本書を読んで、いつしか遠藤周作が描いたイエス像とはせがわくんをオーバーラップさせていました。
そこでは、弱い存在、社会的に虐げられた者が実は、遂には神になるという、逆接が物語として提示されているのです。
この『はわがわくんきらいや』は、作品としてこの世に生まれたそのときから、すでにして古典の地位を与えられた、紛う方無き傑作です。
加えて、早稲田大学社会科学部「障害者福祉論」でのBook Reportで本書を採り上げたので、以下に追加して掲示します。
1、本書紹介
本書は、1976年の第3回すばる書房創作絵本新人賞を受賞した、長谷川集平のデビュー作である。
このことからも分かるとおり、本書は絵本である。
また、本書のあとがきは1975年10月に記されたことから、本書は同年に著されたことが推定される。
2、本書梗概
作者の長谷川集平は、1955年4月に兵庫県姫路市に生まれ、森永ヒ素ミルクを3缶飲んでいると、本書「あとがき」のなかで明かしている。
つまり本書の底流には、森永ヒ素ミルク事件が脈々と流れているのである。
その事件とは、作者が生まれた1955年に、森永乳業徳島工場で製造されたドライミルクに含まれていたヒ素によって、西日本を中心に2万人以上(推定)の乳児が身体に異常を来たし、125人(1957年当時)の赤ちゃんが死亡した事件のことである。
なお、作者は兵庫県生まれのために、作中登場人物は関西弁を使っている。
主人公の長谷川くんは、この絵本の語り手をつとめる作者(実際の作者長谷川集平を意味しない)が在籍する幼稚園に、転入してきた。
その際長谷川くんは、乳母車に乗せられて来たために、みんなから「赤ちゃんみたいや」と笑われる。
つまり、長谷川くんの身体が弱いのは、ヒ素ミルクを飲んだためなのである。
長谷川くんは小学校に進学すると、ピアノを習い始める。それは、喧嘩しても泣かされてばかりいるため、“ピアノで勝つんや”という思いが結晶したからである。
長谷川くんを野球チームに入れて試合に臨むと、相手の投手は“ゆるい球”を投げて長谷川くんになんとか打ってもらおうとするが、にもかかわらず長谷川くんは三振ばかりするうえに、その挙げ句自チームが勝てないために、絵本の作者は“頭にくる”。
けれど、作者は絵本に以下のように記す。
“長谷川くんもっと早うに走ってみいな。
長谷川くん泣かんときいな。
長谷川くんわろうてみいな。
長谷川くんもっと太りいな。
長谷川くん、ごはん、ぎょうさん食べようか。
長谷川くんだいじょうぶか。
長谷川くん。
長谷川くんといっしょにおったら、しんどうてかなわんわ。
長谷川くんなんかきらいや。
大だいだいだいだあいきらい。”
このように、本書は結ばれる。
3、本書をBRに選んだ理由
「障害者が働くことに関する本」についてのレビューが、本レポートの課題である。
この意味を狭義に捉えれば、本書は障害者が働くことに関する本ではないのかもしれない。
しかし私が先生に、BRで採り上げる本の選定基準を問うたところ、「イマジネーション」を持って本を選択しても構わないという回答を頂いたので、イマジネーションを働かせて、本書を選択した次第である。
このように、ヒ素ミルクで身体に異常を来たすようになった長谷川くんは、広義の障害者である。
広義の障害者である長谷川くんが、小学校を卒業し、中学校も卒業し、学校社会から離れた後、いったいどのような社会生活を営み、どんな職業に就くのだろうかという疑問を持ったために、私は本書をBRの対象に選んだのである。
4、レビュー
私が本書を読んで、なによりも驚かされたのは、障害者を“きらい”という、子どもにとってはむしろ、自然とも思える感情を、ストレイトに表明させているところである。
それどころか、きらいというネガティブな感情が、本書のタイトルにまで採用されているのだから、驚倒させられた。
いままで、障害者をきらいと表現した絵本が、どこにあっただろうか。
そして、この場合のきらいが、逆に大いなる愛情表現であるところに、本書の真骨頂があるといえる。
これこそ、ノーマライゼーションの思想を体得していると、いえるのではないだろうか。
感情を無理に撓めることなく、自然に発露させながら、それでいてその対象を、愛情をもって包み込むこむことができるのは、じつは子どもにのみ許された特権なのかもしれない。
そんなことに、本書を読むことによって思い至った。
本書の作者が長谷川くんをいくら、“大だいだいだいだあいきらい”といおうとも、この場合の大きらいが、本来の“嫌い”ではなく、愛情の裏返しの表現であることは明白である。
そんな友人が長谷川くんのまわりにいることは、長谷川くんにとっては何にも替えがたい財産である。
このように、障害を直視できる友人がその周りにいる障害者は、もはや障害をネガティブにばかり捉えるのではなく、自らの属性のひとつとして、従容と受け容れることができるようになるのではないだろうか。
そんな具合に、自らの障害を受け容れた障害者であるならば、職場も、この小学校の友人たちのように、自然と受け容れてくれるような気がしたものである。
障害者はたしかに、健常者とは違うのである。
そこに差別があることは許されないが、よい意味での区別の存在は、許されるのではないだろうか。
人間にとって働く、という行為は、欠くべからざる行為であるようだ。
特に日本人は、西洋人から見ると変わった労働観を持っているようである。
つまり、西洋人が考える労働とは、英語のlaborであり、その語源は、painに求められ、それは、苦役を意味する。
ところが、日本人は嬉々として労働に携わる者が多いとレヴィ・ストロースは指摘した。
また、司馬遼太郎は、「人間というこの痛々しいいきものは、どうやら仕事をするために生きているものらしい」と記している。
そんな人間は、たとえ障害者であっても希望するならば、就労は欠かせないものであり、長谷川くんのような友人に恵まれた障害者ならば、職場でも温かく受け容れられることが、本書を読んで想像された。