1、〔沿革〕
本書は、1989年3月に『捨てられしいのちかつぎて』という題名で、柏樹社から発行されたものを、大幅に書き換え、また加筆し内容を充実させたうえで、知恵遅れ、精神薄弱を知的障害に文言を改めて、再刊された作品である。
2、〔梗概〕
本書は全4章からなる章立てとなっているので、以下に第4章を除く各章をまとめる体裁で梗概を記す。
「第一章 どんなにつらくても」
本書の主人公、渡辺トクは、明治43年に、現在の福島県伊達市に生まれた。生家は養蚕業を営む、封建的な大家族で、村では最も大きな養蚕農家であった。
トクは7人の兄弟姉妹の下から数えて2番目で、幼年時代はトクが女性ゆえ母乳を与えられることはなく、実母の母乳は男性というただそれだけの理由で、同居していた叔父の長男にまわされ、代替の米汁で育ったためか、体が弱かった。
トクは小学校を卒業すると、大正11年に福島の女学校に入学し、そこでの成績は優秀だった。大正デモクラシーの影響からか、トクは、弁護士を希望するが、家族は反対し、新潟の渡辺家への嫁入りをトクには内緒で決められてしまう。
嫁入りした渡辺家も、生家と同じように姑が実権を握っており、封建的な家風で、トクは苦労が耐えない。夫は新潟師範学校を卒業した、小学校教諭だった。
姑に迫害を受け続けるトクを見かねて、舅とトクの両親の斡旋で、姑には内緒でトクの夫を朝鮮の学校に赴任させ、それに従うかたちをとってトクも朝鮮にわたらせる。
9年後の昭和14年に、新潟へとトクは戻ってきた。渡辺の家は、家業の布テープ工場が順調だったが、昭和19年に舅が、続いて翌年姑が亡くなる。
「第二章 福祉への道」
家業を継いだ夫は、教師だったせいか商売は性に合わなかったものの、社会奉仕的な活動には積極的に参加した。
夫の推薦で、それまで思ってもみなかったPTAの司会をトクは任せられる。
その活動を通して、「母と女教師の会」や県教職員組合の新潟支部婦人部長を勤める山岸千枝とトクは知り合う。
「母と女教師の会」の活動で、ある夜、歯科医の診察室にトクがいると、歯痛を起こした脳性マヒの子を、世間体を気にするあまり夜になってからやっと、背負って診察に訪れた母親に出会う。
その母親の気持ちを思うと、トクは床に就いてもなかなか眠ることができなかった。
そんなトクはいつしか、児童憲章にある、「すべての子どもに教育を」というスローガンや、日教組婦人部の目標「すべての子どもを幸せに」が、到底かなえられていない現状を意識するようになる。
トク夫婦は長男に家業の布テープ会社を継がせると、基準寝具の仕事に出会い、昭和38年に会社を興し、その仕事を始める。
ところが創設直後に、トクの夫は急死してしまい、トクが代わりに経営者となる。
経営がある程度軌道に乗った昭和40年、中学校の特殊学級の生徒を3人、実習生として初めて受け入れた。
その後、工場が火事に見舞われながらも、再建させ、今度は重度知的障害の子どもを実習生として10人引き受ける。
次に、精神障害者を従業員として雇い入れる。
こうしてトクは、知的障害者や精神障害者を次々に雇うものの、「私ははじめから計画や見通しをもって障害者を雇い入れたわけではないのです」と述懐する。
中には、「渡辺はあの人たちを安く使って金儲けをしている」と、心ない陰口をたたく者もいたが、そのような風評にも挫けることなく障害者の雇用を続けた。
「第三章 一歩一歩」
特別の考えがあるわけでもなく、トクは頼まれた障害者は、次々と引き受けていた。それは、企業経営より障害者の自立を優先した結果である。
ところが、折角障害者を雇用しても、当の障害者は病院と違って、働かなければならないために、それを嫌う者もいた。
また、障害者の親も始めはどこへも行き場がないのでお金はいらないと言っていたものの、いざ雇われてみると、自分の子供を他人と較べて賃金が低いと苦情を訴える親もいた。
そんな苦情にも耐え、障害者同士が気兼ねなく共同生活を送ることができる寮を、2つも建設することに、トクは成功する。
経営面では、大手の商社が基準寝具市場の占有化を目指し、新潟県に乗り込まれたこともあったが、良心的な医師によって、市場を守ることに成功した。
3、〔感想〕
本書の帯に小説家の森村誠一さんが、「だれにでもできることではないが、だれかがしなければならないことを、著者は身をもって示したのである。」と、本書の主人公、渡辺トクを紹介しているが、間然する所がない紹介である。
1)トクは、「この人たちに働く場がないからここに来て働いてもらっているのだという考えはもっていません。みんなが働いてくれたお蔭で会社がここまでやって来られたのですし、私もこうして生きがいのある生活ができるのです。」というように、もはや今では障害者雇用という意識は、なくなっているようである。
このように、障害者を健常者と差別しない考えに根ざしたトクだからこそ、これほどまでに多くの障害者を雇用することが実現できたのだ、との感を抱かされた。
2)本書の内容で興味を引かれたのは、トクの会社が障害者を雇用する前までは、トクの家族に関する記述が多かったのにもかかわらず、障害者を雇用するようになってからは、家族の記述がほぼ皆無になったことである。
それは、読者に奇異の念を抱かせるほどの徹底ぶりであった。
このことは、トクにとって障害者は、肉親とは分かち難い情を抱くほどの存在だったという、何よりの証左だと、筆者には思われた。
ある知的障害を持つ従業員は、トクに叱られると「私のお母さんは社長さんだ」、そう言って泣きついてくるという記述があったが、これなどは、トクと従業員の関係を何よりも雄弁に語っている箇所である。
3)“私ははじめから計画などがあってやってきたのではなく、必要だからやってきたのです。”
これはトクの述懐であるが、この“必要”に勝るほど強い動機は、ほかにない。
とてもシンプルに語られているこの言葉のなかに、障害者雇用に欠かせない思いが潜んでいるのではないだろうか。
まだある。
“でも私はこの人たちから逃げることはできないのです。それは社長としての義務や責任ではなく、そうしなくてはという心が私にはあったのです。”
この“そうしなくてはという心”も、“必要”と同じ意味である。
4)ならばトクは、どうしてこのような心を持つことができるようになったのだろうか。
それを、トクは次のように語っている。
“根性よしだとか、お人よしは持って生まれた性格で、産んでくれた母親に感謝しています。私は人の不幸を哀れみ、愛情をもって生きてきました。それが今もこの人たちと共に生きる原点になっています。”
このような心情をもつトクだからこそ、障害者を雇用することは当然のことであったのであろう。
最後に、念願の共同墓地に彫られた墓碑を記す。
「はなちるふるさと ははがいる」
4、〔後書き〕
渡辺トクの伝記ともいえる本書を読むことで、副次的な産物として、日本の社会福祉の創世期から今日までの、大まかな流れを知ることができた。
そこで痛感させられたのは、日本の福祉は当初、個人の力によるところが極めて大きかったということである。
つまり、渡辺トクがいなければ、新潟県の障害者は、相当違った人生を歩まなければならなかったのではないだろうか。
しかし、このように福祉を個人頼みにする時代は、幸いなことに過去のことになりつつある。
これからは、社会が障害者を支えるという仕組みをもっと強固なものにしなければならないと、トクの生き方を知ることによって、逆説的に思い知らされることとなったのである。
つまり、これからの障害者雇用は個人に頼るのではなく、制度を整備しなければ、少子高齢社会を迎えた今日の日本では、覚束ないのである。