1)恰好
この小説は、画然と3つの部分に分けられた構成となっている。
それらはただ時間的、全体的に3つの部分に区切ったわけではなく、それぞれに異なった小説的機能を有した3つの別種のブロックによって形成されたものとなっている。
(1)前置き
丸谷才一と思しき作者は垂直な壁に映る樹木の影に、魅かれている。
何故かしらそれに昔から心を惹かれる傾向がある。ただ作者は、それが何故であるのか、明確な理由、根拠が思いつかない。 それを出しに小説を書いてみようとしているのだが、それに着手することができずにいる。
それは作者が数年前に、どこかで、似たような筋立てのナボコフの小説を読んだことがあるからである。
つまり作者としては、他の作家の「後塵を拝するのは、やはり癪」だったのである。しかしその小説を念のために読み返そうとすると、どういうわけかそれが見つからない。
自分としては、頭の中にすでに出来上がっている小説の筋を、小説のかたちにして肩の荷を降ろしたいのだが、それはかなわない。
(2)小説のなかの小説の始まり
この部分は、『樹影譚』のなかに入れ子のように置かれた、小説である。
メタ小説とでもいうのか。
この小説の主人公は、古屋逸平という明治生まれの小説家。
この古屋は、同じ小説家といっても、年齢的にも文学の傾向としても、作者=丸谷とはまったく違うタイプの小説家として描かれており、作者の投影という存在ではない、ということが読者に明瞭に分かるように、造形されている。
この古屋も、丸谷とおなじように、壁に映る樹影に魅かれている。
古屋はすでに70歳を超えているが、長編小説を執筆している最中で、小説中のエピソードが紹介されている。
それは、「樹の影、樹の影、樹の影」と独り言をつぶやいているほど、樹の陰に惹かれているというのだ。
なおかつ、この古屋逸平が書いている小説の作中人物もまた、樹の影に魅かれている。
(3)展開する「小説内・小説」
古屋はある事情から、故郷に講演にいくことになる。
講演の内容が、「小説内・小説内・講演」という位置にあり、そこでは、志賀直哉の批判、折口信夫にふれるくだりがあり、捨子譚、継子譚へと至り、それが伏線となる。
古屋は、生家からかなり離れた、まったく面識のない旧家の女性から唐突な招待を受ける。
面倒なので古屋は、断りの手紙を書くが、老女の姪なる人物からの再度の懇請もあり、結局招待を受けることになる。
古屋は講演後、気が進まぬままこの老女の住まいを訪れ、彼女と差し向かいで語る。
そこで、老女は意外な事実を古屋に打ち明ける。
それを、老女はその小説家の母なのである、そのことを、ざわめく影の樹々のなかで、時間がだしぬけに逆行するうちに、小説家は未生以前に激しくさかのぼりつつ感じる。
以上が、だいたいの構成であり、(3)の部分だけが正確な、あるいは古典的な意味における「物語」であって、(1)は全体の前置き、(2)は(3)へのイントロダクションの役目を果たしている。
2)考察
この小説は、「どこまでが本当で、どこからが嘘なのか」と村上春樹が、『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)で記しているように、それを詮索しながら読むのが、一種の妙味を与える作品である。
村上春樹が続いて面白い指摘をしている。
上記、(2)ではどんなことが行われているのか。
それは、(1)から(3)への移行であり、一人称=作者=丸谷才一から、三人称=古屋への移行が行われている、という指摘である。
つまり、この(2)があることによって、読者は一人称=作者=丸谷が、三人称=登場人物へと変身する様を、じつに仔細に味わうことができる、というのである。
ここから村上は、“この作者は常に「自分ではない誰か」に変身することを求めているように見えます。”と記す。
登場人物を設定し、そこに自らをはめ込んでいくことによって、小説を作り、自己のアイデンティティーを検証していこうとしているように見える。変身願望から小説が出発していると言ってもいいくらいではないか。
これはまさしく、「反私小説的である」ということである。
私小説というのは、自己を外界あるいは社会に対峙させることで、小説=反物語を成立させているが、それと全く逆のことを志向しているのが、丸谷才一という小説家で、他者を外界あるいは社会に対峙させることで、小説=物語を成立させている。
そして他者と自己との、世界と物語との落差の中に真実を読み取ろうとしているのが、丸谷才一が描く文学世界、なのではないだろうか。