町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

司馬 遼太郎『この国のかたち』六「歴史のなかの海軍」(四)(文春文庫)らん読日記

2008.04.03(木)

 このレポートは、「まちだ史考会」における読書会において、『この国のかたち』の担当分として作成したレジュメです。

題字・司馬遼太郎『この国のかたち』六

 以下に、小単元(本文で1行空いている段落毎に一括りにした単位)の順に、その梗概をまとめ、その後、本欄の主人公、山本権兵衛への注釈を加えます。

1、明治になり、それまで幕府と諸藩が持っていた小規模な艦船を集めて日本海軍が創設されたが、それは、脆弱を極めたものに過ぎなかった。
 それでも、技術好きな国民性の故か、明治も20年代に入ると艦艇がいくらか揃い始め、二流ながらも海軍らしい陣容を整えるようになった。
 ただ惜しむらくは、海軍当局の人材は玉石混淆のままであったことである。

2、ここに海軍改革者として、山本権兵衛が登場する。
 権兵衛は、海軍よりプロシャ(ドイツ)に派遣されたが、大佐になるまで一貫して、海上勤務ですごした。
 長の陸軍に対して、薩の海軍という言い方があったが、権兵衛はその薩摩で生まれ育った。しかし、少年時代はとくに秀才だったという評判はなかった。
 したがって、権兵衛の透き通った合理主義、容赦なく実行する精神は、後天的に備わったものと考えられる。

3、世界は海洋の時代に入り、地理学的に、朝鮮半島が日本を脅かす存在として意識されるようになった。
 そんな事態に至ったとき、政治レベルで、海軍は権兵衛に委ねることが決まる。

4、権兵衛が海軍大臣官房主事になったのは、明治24年のことであるが、その年には、一流の大鑑を擁する清国の北洋艦隊とロシアの艦隊が、日本の貧弱な海軍を見下すように来日し、威容を誇示した。

5、権兵衛が海軍建設に独裁的な辣腕をふるうことができたのは、その後ろ盾として、西郷隆盛の実弟従道が海軍大臣の要職にあったからであるが、それでも、同郷の薩摩人将官8人を退官させ、海軍兵学校の人材を海軍の中心に置くという大鉈を振るった明治26年の人員整理は、従道も度肝を抜かれるほど苛烈を極めたものであった。
 下記書によれば、こんな記述がある。
「山本伯は軍務局長をやった大佐の時代から、権兵衛大臣で通ったほど、時の西郷海軍大臣に用いられたものである。あるとき、新橋の花月で陸海軍のえらい連中があつまったが、西郷に『オハンは権兵衛ばかりを用いる』とくってかかった。しかし西郷はとりあわず、『権兵衛とおまえらとは、値うちが違う』と、笑ったという逸話が残っている。

6、その翌年の明治27年、日清戦争が起こる。
 日清両国ともにいまだ軍隊近代化の途上にあり、戦力が充実していなかったために双方は早期決戦を求めた。そこにおいて、権兵衛が献策した小口径の速射砲の活用による打撃により、清国艦隊は大敗を喫した。

7、その10年後明治37年に、こんどは日露戦争が起こる。
 権兵衛は、もう山本と呼ぶべきだろう。なぜならば、明治31年には権兵衛は、海軍大臣にまで登り詰めたのだから。
 山本は、無線電信機を重視した。その結果、日露戦争の海軍の勝利を、通信の勝利という説を採る者がいるほどである。

 ロシアは旅順とウラジボストクに二艦隊を持ち、さらにバルチック艦隊まであるのに比して、日本には山本がつくった聯合艦隊一艦隊があるのみ。彼我の戦力差は余りにも大きかった。
 そこで、山本は人事に意を用いた。戊辰戦争以来の朋友であり、日高壮之丞を聯合艦隊の司令長官に据えず、鶴舞鎮守府司令長官として定年を待っていた東郷平八郎を司令長官に任じた。
 その結果、日本海海戦で海軍は勝利を収め、日露戦争を終結させることができた。
 山本は、日露戦争に勝つべく海軍を設計し、充分に用意し、結果その通りとなったものの、その功を誇ることなく、戦後、東郷の功のみを褒め称えた。

山本英輔『山本権兵衛』(時事通信社、1958年)
 著者の山本英輔は、権兵衛の甥でもある海軍大将。第19代聯合艦隊司令長官。
 著者は権兵衛とは縁戚関係にあるため、本書では、権兵衛の短所にはほとんど触れることがない。たとえば、海軍兵学寮では、権兵衛の卒業席次は17人中16席だったということには同書では、触れていない。
 というわけで、本書は、甥による権兵衛礼讃の書である。

1、合理主義者
 山本権兵衛は、合理主義者である。
 その一例として、明治18年、イギリスで製造した浪速艦を本邦に引取る際に、兵員糧食に特記すべき改良を行っている。
それは、艦船乗員に脚気にかかるものが多かったために、英国海軍にならい、乗員にパン食を励行させたことである。
 これは、当時米食が当然のこととされていたことを考えれば、極めて果断な処置である。

2、海軍軍令部の設置
 山本は、海軍大臣官房主事であったとき、外国の海軍の例や陸軍にすでに陸軍参謀本部という陸軍大臣からの独立機関があることから、海軍では海軍大臣の下にあった海軍参謀部を、海軍軍令部条例の制定によって改め、海軍参謀機関は、本省と離れて、海軍軍令部という独立した部門へと制度を変更させた。

3、公平無私の人材登用
 たとえ同郷出身の先輩で維新当時から勲功を積み将官の地位に在るものでも、あるいは自分と親しく交わっていたものでも、海軍の将来を考えた場合、淘汰する必要があると認めたものは断じて整理し、自分に反対して悪口を放つものであっても、将来国家有用の材であると認めたときは、かえってこれを推薦した。

 山本の秘書官だった小林躋造によると、
 「一時薩摩海軍などといって、薩人でなければ海軍の要職にはつけないといわれ、その中心が(山本)大将であるかのように伝えられたものだが、そんなことはない。私にもときどき人物評論を聞かしてくれたが、特に同郷の人を庇護させるようなことは毛頭なく、むしろ他郷の人材を推称されていた。伊藤博文公には最も推服されていたようである。いま海軍部内に見ても、山本大将以後海軍大臣になった人は、財部大将を除いて、みな薩人ではない。軍令部長も伊集院元帥以後みな他郷の人である。そして、これらの人々は、多く山本大将が海軍大臣に在職していた八年間に頭角をあらわし、重用されてきたのだとみなければならない。」

4、東郷平八郎を登用した山本
 日本海海戦の大勝によって、東郷平八郎は名提督として世界に名を知られるが、この東郷の非凡を見抜き、登用したのは山本であった。
 すなわち、いよいよ日露の国交断絶しようという際、兵学校以来の親友で、しかも縁戚にあたる日高壮之丞中将を退け、舞鶴鎮守府司令長官東郷中将を連合艦隊司令長官の後任にたてた。

5、伊藤博文の山本観
 山本は伊藤博文を心から尊敬していたが、伊藤もまた山本に大きな信頼を寄せていた。

 あるとき伊藤は、宴会の席で、山本に向かい、「個人として君に敬服することが三つある。この三点は、先輩木戸、大久保も及ばぬところではないだろうか。まずその一は、人を見る明のあることで、このたび東郷中将を司令長官にしたことなどがそれである。第二に、海軍の教育訓練をはじめ、諸般の施設準備にいたるまで慎密周到、至れり尽くせりであること。第三は、まだ時機ではないので、ここにはいわぬが……」というようなことをいったという。この第三の理由は結局わからなかったが、伊藤が山本の人物をよく理解していたことはわかる。