【箇所】2009年度前期 早稲田大学大学院法学研究科
【科目】社会保障法理論研究
【担当】菊池 馨実 教授
【著者】木下 秀雄〈大阪市立大学 法学部〉教授
【タイトル】「『権利の体系としての社会保障』の意義」
【掲載誌】「法律時報」79巻8号(2007年)
《本論文の構成》
はじめに
一 要保障者の「主体性」と社会保障の権利
二 人間の尊厳の理念と生存権
三 具体的争訟と普遍性
はじめに
「憲法学や法哲学のレベルで(略)生存権の権利性を消極的に解する主張や、パターナリズム批判の視角から「受益中心の『人権意識』」に対する批判が提起されている。」
「社会保障法学」においても「権利主義」批判が一九九〇年頃から盛んになってきている。」
「「権利主義」批判の主たる対象となっているのは小川政亮の社会保障権利論であると考えられる。」
前記小川教授の権利論は、「「人権としての社会保障」を強調する点に特徴がある」 が、「本稿は、小川権利論の立場から「権利主義的社会保障論」批判に対する反批判を試み」 たものである。
一 要保障者の「主体性」と社会保障の権利
「「権利主義的社会保障」論に対する批判点の一つとして、「安易に政府によって保護されなければ生きていけないような『個人』を前提とする」こと」 が挙げられる。
二点目として、「生活向上を自己目的化し、個人に対する国家のパターナリスティックな保護干渉の、なし崩し的拡大」 になるのではないか、というものがある。
これらは、本来目指すべき社会保障の法理念である「行為主体の自主的自律的な生の構築」に反するのではないかとか、「本来社会保障法関係の軸におかれるべき個人を、積極的能動的な権利義務主体というよりは受動的な受給者すなわち保護されるべき客体として捉える見方につなが」 る。
上記の批判に対して、木下は下記の反論を行う。
1、近代社会においては、市場経済に依存せざるを得なくなっており、「社会保障給付の活用の場面だけを特に取り上げて、市民の(略)『政府の活動』に対する安易な依存を論ずるのは、現代社会における政府の役割の意味から目をそらすものといえる。」
2、「要保護者が主体的に、行政に対して自らの立場を「権利主張」という形で主張することができるようにすることが、(略)従属性・依存性からの脱出を可能にし、行政との「対等の立場」を構築することになる。これは換言すれば、社会保障給付が「恩恵」でなくなって、自らの「権利」とすることによって、要保護者は当該社会保障給付を自ら主体的に決定可能な範囲に取り込むことができる。」 と指摘する。
3、「求められているのは、要保護者が置かれている現実とそこにおける矛盾について、現存の社会保障制度・法構造を解明し、「社会保障の権利」のありようを具体的に解き明かしていくことであるといえる。」
二 人間の尊厳の理念と生存権
「小川権利論は、(略)人間の尊前の理念を踏まえた生存権を社会保障の基礎にすえる議論」 を展開しているが、それに対しては、つぎにみられるような反論が加えられている。
「社会保障の目的を、「個人が人格的に自律した存在として主体的に自らの行き方を追求していくことを可能にするための条件整備」と捉え、しかもそうした性格づけから社会保障制度のあるべき規範的諸原理を引き出すという主張を菊池馨実が行っている。」
その見解では、「社会保障法の根本目的を「個人的自由の確保」にあるとし、憲法上の基礎として憲法十三条を位置づける。」
これに対しては、「「(憲法十三条から)導き出した『自由』が生存権や社会保障の理念といえるか」、「自律・自立が強調されることによって過度に自己責任が追及されることにならないか」、「社会保障の法や制度の根拠及び在り方について、専ら憲法、理念または原理に求める考え」 方に対する疑問が提起されている。
ここで、社会保障制度の原理・原則の一つとして定立されている「貢献」原則について触れられる。「具体的には、二〇〇五年度から生活保護行政に導入された「自立支援プログラム」に関連して、「自立支援プログラムに参加さえしようとしない被保護者に対し、最終的に保護変更・停止・廃止権限の行使を明記した」ことに対して、「『貢献』原則の制度化という意味で、基本的に積極的に評価」すべきであるとなされている点である。」
「この問題を考える際に重要なことは、人格的自律権を社会保障の規範的根拠とするという場合、一方で、人間はすべて人格的自律を有する存在である、ないしはそうした存在であるはずだと理解し、それゆえにすべての人間に生存保障を行うべきである、という論理と、他方では、「個人の人格的自律の支援」という目的に適合する範囲で生存権保障を行うべきである、という論理がありえるということである。」
「後者の場合、人格的自律の維持ないし達成が社会保障給付受給の要件とされることになりかねず、しかもその場合、個々人の人格的自律のありようを評価・判定するのは社会保障行政機関ということになるとされる。これでは、「国家による個人への過度の干渉」を積極的に肯定する結果になりかねず、社会保障の目的とされる「個人の自由表現」に反することになるのではないか。
つまり、被保護者が人格的自律を有する人間であるとすれば、他者(行政)が当人の「自立」に資するとして作成したプログラムに参加するかどうかを、プログラム途中での中断を含めて、まさに当人の自律的判断に任せるべきではないのか。行政がどのような基準で参加拒否理由の「合理性」を判断して、当人が人格的自律支援の対象外であり、最低生活保障にさえ値しないと判断するのか、という疑問が生じる。」
「社会保障制度のありようを観念的な「あるべき、あるいは、あるはずの人格的自律」像からのみ一方的に規定することは、現実の社会的経済的環境の中で自律を確立、維持できない具体的人間を切り捨てることになる危険があるといえよう。」
三 具体的争訟と普遍性
「福祉国家実現の課題は政治的プロセスによって解決されるべきものであり、司法制度は国民の政治参加プロセスを確保することを任務としているとする立場から、生存権の権利性を論じることに消極的な見解が示されている。」
「しかし、主権者としての市民の立法と行政に対するコントロールの方法は、選挙権行使などの政治参加プロセスに限定されなければならない理由はない。日本の現在の司法制度上個別利益ないし権利をめぐってしか訴訟提起できないが、そうした個別権利利益の追求という形をとっていても、現在の社会保障をめぐる訴訟の多くは、単に当事者の権利利益の充足のみを目的とするのではなく、社会保障行政・立法が現実の生活場面と矛盾している点を指摘し、その改善を求めて提起されている。」
そうすることによって、「具体的な事案に沿って争訟を提起することが社会保障制度の全面的改悪に警鐘を鳴らすことになり、政治的プロセスでは反映されにくい少数者の声を社会的に提起するうえで、大きな役割を果たすことになると考える。」
【若干の考察】
1、木下論文132頁で指摘されているように、「要保障者は当該社会保障給付を自ら主体的に決定可能な範囲に取り込むことができる」ものの、それを敢えて拒絶し、パターナリズムな保護・干渉を求める要保障者に、行政はどのように対処すべきなのかが、当論文を読む限りでは、不明である。
参考までに、法学的な視角ではないものの、パターナリスティックな対応を求めがちな日本人特有の例を心性の観点から、ひとつ挙げる。
朝日新聞2009年5月8日[朝]によれば、昨年5月18日クリネックススタジアム宮城3塁側内野席で打球が右目に当たった被害者は、視力が0.3から 0.03まで落ちたため、楽天球団と球場を所有する宮城県に対して、約4400万円を支払うように仙台地裁に訴えを起こした、という。
米国大リーグの球場では、バックネット(米語では、back stop)以外には原則として、防護フェンスはないが、観客がボールによって怪我をしたり、個人の所有物が壊されたりしても、球団、選手、米大リーグ機構(MLB)には一切責任がない、という認識が浸透している。
2008年7月のシカゴトリビューン紙では、「米国ではマイナーリーグを含め年間約300人の観客がファウルボールに直撃されている」と伝えた。MLBは各球団に安全策を求めたが、防護ネットなどの設置は見送られたという。ファンから「視界を遮るものはいらない」という声が上がったため、という。
それに対して、日本の球場の多くは、防護ネットを張っており、同ネットが無い場合には、顔の前に立てる防球板を座席につけたり、ヘルメットの着用を義務付けたりと、安全対策に力を注いでいる。
このように、日本人はパターナリスティックなものに依存する傾向が見て取れる面があるのは、否定しきれないものと考える。
2、当該論文における、パターナリズム批判の視角に対する論点として、大内伸哉(神戸大学)教授の意見をご紹介したい。それは、下記のとおりである。
「「甘える」国民に対しては、国家としては「パターナリズム」が有効である」と指摘したのち、「今日、日本経済は悪化し、雇用問題が深刻化している。会社も労働者も、政府に甘えて、何とか対策を講じるよう求めている。ただ、ここには、パターナリズムの匂いが感じられない。なぜかというと、今の政府には権威がないからである。権威のない国家が国民を甘やかすというのは、ポピュリズムである」と断じている。
続けて教授は、つぎのように記す。
「権威を失い、パターナリズムもない国家が、国民に迎合する「甘い」政策を行うことは、国民の自由や自己決定を侵害しないとしても、それよりも大きな危険があるように思われる。それは国家の論理の崩壊である。」
しかし、木下論文、西原論文で問題視されているのは、「甘い」政策による国家の論理の崩壊ではないため、これ以上の言及はさける。
3、障害者の自立に関して、障害者の立場からの意見をご紹介したい。
札幌市にある社会福祉法人アンビシャスの施設長であり作家の、小山内美智子は、「幼いころ脳性まひになり、札幌市で車いすの生活をしている重度の障害者」である。
小山内は、次のように記す。
「障害者にも気になる点がある。困ったことがあると何でも職員に相談して甘える姿をよく見る。なぜ「自立」しようとしないのか。私は手も足も不自由で、髪をとくことも出来ない。でもこうしてくださいと、自分の意思を誰かに伝え、やりとげることはできる。車いすを押してもらっても行き先を決めるのは自分であり、自立とは自分の人生を自分で選ぶことだと思う。
昨年、悪性リンパ腫で入院した。寝たきりで天井をいつも見ているがん患者の女性がいた。抗がん剤を打ちながら口述筆記を続ける私に彼女は「なぜ、そこまでやるの」と尋ねた。私は「売店に行って買い物をしたり、車いすで動いたりした方が楽しいでしょ」と答えた。彼女がリハビリを始めたのは間もなくだった。
重度の障害を持っているからこそ訴える力がある。長年足指でキーを打ったせいで首を痛め、手術を3回受けた。もう無理はきかないが、人々にこう語り続けたい。「自立してますか?」と。」
なるほど、パターナリズムを欲する人々もいるものの、自立にこそ大きな価値を見出す障害者もいることを再認識させられた記事であった。