【箇所】2009年度前期 早稲田大学大学院法学研究科
【科目】社会保障法理論研究
【担当】菊池 馨実 教授
【著者】西原 博史〈早稲田大学 社会科学総合学術院〉教授
【副題】「自己決定・社会的包摂・潜在能力」
【掲載誌】「法律時報」80巻12号(2008年)
【早稲田大学 社会科学部】西原教授担当の憲法を履修
【本論文の構成】
一 「格差社会化」と空転する生存権論
二 「国民の生存権」という桎梏
三 社会的排除の克服という視点と潜在能力アプローチ
四 生存権保障における自律・自立の位置づけ
五 憲法二五条一項と二項の規範構造
一 「格差社会化」と空転する生存権論
「二一世紀に入って日本でも、「格差社会」と呼ばれる現象が注目されるようになってきた。」
「これは貧困問題であり、格差それ自体が問題ではない、という指摘も説得力を持つ」 が、「「滴り効果(trickle-down effect) が機能しなくなり、大企業を担い手とする成長政策が国内における貧困の克服につながらなくなったことを確認する点で、「格差社会」という問題設定にも意義がある」 と筆者は考える。
したがって、「経済成長の再来を期待することによって「国民の生存権」の実現を図る政策的な方向性には社会構造的な前提条件を欠いているとの批判が成り立つ。」
「憲法二五条一項で保障されているのは、国民個人の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」である。この生存権は、本当に個人の権利であろうとするならば、国民全体が平均値として豊かになれば実現されるという構造のものではあり得ない。そのため、滴り効果を期待した政策に限界が見えた今こそ、生存権の権利論として実質が光り輝かなければならないはずである」 と指摘する。
「ところが、奈落へと無限に落ち込むセイフティネットの穴が指摘されていることこそ、現在の日本の現実である。」
「この現実は、憲法学に対する手厳しい告発をすら意味するだろう。憲法二五条が裁判の場で空転しがちなのは、一九六七年五月二四日の朝日訴訟上告審傍論「念のため」判決(民集二一巻五号一〇四三頁)、そして一九八二年七月七日の堀木訴訟上告審判決(民集三六巻七号一二三五頁)を通じて確立した現在における判例の水準に起因する。」
「そこでここでは、まず理論史的な視点から現在において生存権論が空転するに至った構造的問題を探り(二)、その影響下で現在生じている欠落を埋めるための手がかりを社会的包摂論やケイパビリティ論の中で模索し(三)、その際に問題となる個人の自由・自律の位置づけと(四)、権利が権利であることの意味(五)を順に検討してい」 る。
二 「国民の生存権」という桎梏
「滴り効果を期待した成長政策をもって「国民の生存権」実現の道筋とみる発想は、陰に陽に憲法二五条に関する解釈論を規定し続けてきたのが現実だろう。これはもともと、初期の憲法学におけるプログラム規定説の中に組み込まれた桎梏だった。この理論的な立場は(略)生存権の具体的な権利内容を特定する際の手がかりとして不十分であっただけでなく、むしろ積極的な妨害として立ちはだかっていた。」
「たとえば宮沢俊義は、「公共の福祉」を人権相互の調整原理と捉えつつ、「社会国家的公共の福祉」の名の下に「社会権」に基づく経済的自由の制約可能性を広範に承認した。」
「この枠組は、遅くとも一九七五 年四月三〇日の薬事法違憲最高裁判決(民集二九巻四号五七二頁)における規制目的二分論を通じて最終的に判例として定着し、広く承認されている。」
これを、「「権利」と呼ばれながらも極めて不定形な政策課題が、宮沢が公共の福祉によって調整されるものとした「人権」の正体であった」 と、西原教授は批判する。
「そこにおいて人権概念は、多数決に対してでも対抗できる個人を主体とする請求権という意味内容から大きく逸脱し、(略)人権概念の致命的な拡散である。」 と、同教授は断ずる。
「経済的弱者の救済一般が生存権の課題とされた時、雇用政策も、経済政策も、すべて生存権実現の手段と位置づけられる。」
「そのため、生存権を確保する手段の選択について広範な政治
部門の裁量が認められ、個人が求める社会政策的な措置に関する不作為が権利侵害と構成されにくい枠組みができあがってしまう。」 と、指摘する。
「こうした枠組は、決して宮沢に、あるいは最高裁の判例に特有のものではなかった。法律によって実現された社会保障制度が憲法規範に高められると説く抽象的権利説も、経済成長によるパイの拡大を期待する方向性と無縁ではなかった。典型的には一九七五年十一月一〇日の堀木訴訟控訴審大阪高裁判決(判時七九五号三頁)において採用され、物議を醸した一項・二項区分論−児童扶養手当と障害者福祉年金との併給問題が、国の広い裁量にかかる防貧政策の問題であり、憲法二五条一項の絶対的基準を確保しようとする救貧政策とは区別されるという立場−に対する批判の中に、成長志向が表れてくる。」
「このように抽象的権利の枠組においても、立法を通じた制度拡大を前提とすることを通じて、権利が権利として成り立つための定点を求める努力を放棄できる枠組が作り出されていった。」
三 社会的排除の克服という視点と潜在能力アプローチ
「保護提供主体に重きを置いた生存権理解の結果として、福祉の受け手が抱える実際の困難が視野から抜け落ちていた可能性がある。」
「ところが、現実の生活において苦境にある人々は、複合的な原因から社会に参画するための潜在能力としての「溜め」 を奪われ、人間関係をも分断されて保護客体の地位に貶められている。」
「近時、憲法学の中においても、既存の社会保障システムが作り上げてきた「保護を通じた恣意的支配」を告発しながら、「権利の内実およびその保障過程についてのリアルな把握により、憲法上の権利としての生存権により行政および立法を統制する理論を構築すること」こそが課題とする見解が打ち出されている。」
「笹沼弘志は、「社会的排除の極限としてのホームレス」を取り巻く現状に着目することで、「自立の条件が制約されているがゆえに他者に依存せざるをえない者に対して一切の保護を与えず自立を強制し、排除する権力に対して、抵抗し、排除に抗するのが社会権の意義」であるとする認識を打ち立てる。」
「笹沼がここで、「社会的排除」という構造で問題を捉えるように、貧困を単に可処分所得のない状態と受け止める枠組を克服する必要性が広く認識されつつある。特にEUは、貧困と差別を同根の社会的排除(social exclusion)に起因し、また排除を結果とする現象として位置づけて、「排除との戦い」を一九八〇年代以来、積極的に進めていることで知られる。」
ただし、「社会的排除を克服する道筋として連帯に基づく「社会的包摂(social inclusion)」が求められる時、それは個人にとってアンビヴァレントな機能を持ち得るものとなる。多数派の生き方へと包摂されようとする時、そこに強烈な同調圧力が生じ、笹沼の危惧する恣意的支配が連帯の名の下に、強化される危険がある」 と、同教授は指摘する。
つまり、「社会的排除/包摂という問題設定自体は、すべての困難を克服する魔法の呪文ではない」というのである。
「最近、アマルティア・センの潜在能力(capability)アプローチを連動させることによって適切な福祉政策の方向を特定しようとする動きが広まっている。すなわちセンは、貧困を「受け入れ可能な最低限の水準に達するのに必要な基本的な潜在能力が欠如した状態」と捉え、所得の低さそれ自体を貧困の重要な指標であるしつつ、「所得が不十分であるとは、それが外部より与えられた貧困線より低いということではなく、その所得が特定の潜在能力を発揮するのに必要な水準に達していないこと」だとする理解を打ち立てる。」
それを同教授は「このアプローチは、同質的な所得保障それ自体を自己目的化する貧困対策の考え方を克服して、各個人が価値あると考える生活を送る潜在能力を妨げているものを複合的に認識し、必要な対策を取る道筋を開こうとするものと評価」 している。
四 生存権保障における自律・自立の位置づけ
三でのセンの論議を踏まえ、「生活保護受給の道が表面的に無差別な形で開かれただけでは、なお個人の潜在能力が実現し得る環境を作る上で十分ではない。逆に、生活保護受給者という排除事由を貼り付けることによって、潜在能力の剥奪が固定化される危険さえもが指摘されている。こうした状況を意識した場合、社会福祉の領域における人権論の課題として、いかに個人の自律的な生の営みを可能にする条件整備の方策を作り上げていくのかが問われてくる」 と指摘する。
「そのため、憲法二五条の保障するものの実態を「自由」や「自律」の原理と連続性をもったものと意識し続けることが私見では重要となる。」
「従来の社会政策的な保護の中では、保護を行う側が被保護者の生き方を恣意的に標準化し、劣った生を強制している事態こそが最大の問題であった。そのため、自らが必要とするエンパワーメントの構想を主張する側として、保護受給者の個人としての主体性を(略)回復することこそが急務であると思われる。」
それを受けて、「個人の主体性を無視した道徳主義を克服することが急務であることを考えた場合にいっそう妥当する 」と記す。
それに対して、「個人の自律性を憲法二五条解釈の基盤として重視することに対しては、批判も少なくない。(略)「保護を通じた恣意的支配」を克服しようとする私見と共通の道を探る笹沼は、それでも「支配を克服するために保護への依存から脱却することを主張」する私見が「『自立』のための条件を制約されているからこそ保護に依存せざるをえない人々の自由の条件を掘り崩す危険がある」と批判する。もとより保護を拒絶できない条件下にあるからこそ個人が生存権を主張する場面を想定するわけだから、依存からの「脱却」はむしろ精神的な意味での話でしかない。それを踏まえた笹沼の批判は、潜在能力の顕在化を求めることによって生ずる当事者への強烈な負担を危惧する視点に基づいている。」 との批判を紹介する。
「同様の論争は社会保障法学の内部においても繰り広げられている。社会保障法の体系の中で「自由」理念の位置を再確認した菊池馨実は、この理論要素から、(1)国家による個人生活への過度の介入をもたらすような制度設計は望ましくない。(2)社会保障法関係において想定されるべき基礎的法主体としての個人とは、受動的な一方的受給主体ととらえられる「保護すべき客体」たるべき個人ではなく、能動的主体的な権利義務主体たる個人である、(3)自律した個人の主体的な生の追求による人格的利益の実現のための条件整備というとらえ方の中に、平等取扱いの契機が含まれている、という三点の規範的要請を導き出した。それに対して堀勝洋は、「『自由』を保障するために社会保障法が制定されるとまでいうのは、余りにも現実の社会保障法を理想化」するものと批判し、社会保障法の根拠が社会連帯であることに固執する態度を打ち出す。」
このように、両者の論争によって、「保護提供者によるパターナリスティックな支配そのものの正当性をめぐる対極的な立場が明らかにされている。」
その際の「笹沼の指摘は、自律をあくまで規範理念の次元に留め、当事者が自律・自立可能であるという事実上の想定を理論に組み込むことを拒否する姿勢に由来する」 のである。
そこで、西原教授は、「「自立支援」的な発想で貧困問題を根本解決しようとすることが一概に排斥されるわけではない。ただ、支援されても自立できない人が確実にいて、この人たちの尊厳も同様に尊重しなければならない」と指摘し、「自立を強制されない権利という意味でも、社会政策における個人の主体性と自律性を踏まえ続けることこそ重要なのではなかろうか」と問いかける。
五 憲法二五条一項と二項の規範構造
西原教授は、「堀木事件控訴審判決に対する批判を検討した際には、成長路線に期待して憲法二五条の中に常に拡大していく夢を読み込む憲法解釈の方法を不適当だと論じた」が、「権利論として、多数決を排除してでも実現されていなければならない水準を確定しようというのであれば、そこでは主体的な願望の実現を政治過程に委ね、一人の人間として生きていく上で絶対に譲れない最低限度に限定した問題設定が必要になる」と指摘し、「新たな理論的手がかりとして確認した原理は、まずは社会保障法学という独立の学問体系にとっての原理であ」り、「国家目標設定としての憲法二五条二項の「社会福祉、社会保障、公衆衛生の向上及び増進」条項から一定の立法に対する後追い的な解釈基準が導出できるに過ぎない」と記す。
「それに対して、憲法二五条一項が適用される場面では、最低限度に関わる純粋な権利が問題になる。(略)これは、不完全な人間が、お互いに依存しあって共同生活を営む中で、それでも相互に自分なりに有意義な生き方を大切にしていこうと決めた社会で、権力体を作ってその有意義な生の条件を確保しようとした際に、常に保障していなければならない条件セットである。その中で、保護提供者の定義した「被保護者らしい生」が強制されることはないという点は、制度の目的自体に関わる基準として、踏み外すことのできないものである」 と規定する。
【若干の考察】
1、木下秀雄論文132頁で指摘されているように、「要保障者は当該社会保障給付を自ら主体的に決定可能な範囲に取り込むことができる」ものの、それを敢えて拒絶し、パターナリズムな保護・干渉を求める要保障者に、行政はどのように対処すべきなのかが、当論文を読む限りでは、不明である。
参考までに、法学的な視角ではないものの、パターナリスティックな対応を求めがちな日本人特有の例を心性の観点から、ひとつ挙げる。
朝日新聞2009年5月8日[朝]によれば、昨年5月18日クリネックススタジアム宮城3塁側内野席で打球が右目に当たった被害者は、視力が0.3から 0.03まで落ちたため、楽天球団と球場を所有する宮城県に対して、約4400万円を支払うように仙台地裁に訴えを起こした、という。
米国大リーグの球場では、バックネット(米語では、back stop)以外には原則として、防護フェンスはないが、観客がボールによって怪我をしたり、個人の所有物が壊されたりしても、球団、選手、米大リーグ機構(MLB)には一切責任がない、という認識が浸透している。
2008年7月のシカゴトリビューン紙では、「米国ではマイナーリーグを含め年間約300人の観客がファウルボールに直撃されている」と伝えた。MLBは各球団に安全策を求めたが、防護ネットなどの設置は見送られたという。ファンから「視界を遮るものはいらない」という声が上がったため、という。
それに対して、日本の球場の多くは、防護ネットを張っており、同ネットが無い場合には、顔の前に立てる防球板を座席につけたり、ヘルメットの着用を義務付けたりと、安全対策に力を注いでいる。
このように、日本人はパターナリスティックなものに依存する傾向が見て取れる面があるのは、否定しきれないものと考える。
2、当該論文における、パターナリズム批判の視角に対する論点として、大内伸哉教授の意見をご紹介したい。それは、下記のとおりである。『ちくま』2009年5月号
「「甘える」国民に対しては、国家としては「パターナリズム」が有効である」と指摘したのち、「今日、日本経済は悪化し、雇用問題が深刻化している。会社も労働者も、政府に甘えて、何とか対策を講じるよう求めている。ただ、ここには、パターナリズムの匂いが感じられない。なぜかというと、今の政府には権威がないからである。権威のない国家が国民を甘やかすというのは、ポピュリズムである」と断じている。
続けて教授は、つぎのように記す。
「権威を失い、パターナリズムもない国家が、国民に迎合する「甘い」政策を行うことは、国民の自由や自己決定を侵害しないとしても、それよりも大きな危険があるように思われる。それは国家の論理の崩壊である。」
しかし、木下論文、西原論文で問題視されているのは、「甘い」政策による国家の論理の崩壊ではないため、これ以上の言及はさける。
3、障害者の自立に関して、障害者の立場からの意見をご紹介したい。
札幌市にある社会福祉法人アンビシャスの施設長であり作家の、小山内美智子は、「幼いころ脳性まひになり、札幌市で車いすの生活をしている重度の障害者」である。
小山内は、次のように記す。
「障害者にも気になる点がある。困ったことがあると何でも職員に相談して甘える姿をよく見る。なぜ「自立」しようとしないのか。私は手も足も不自由で、髪をとくことも出来ない。でもこうしてくださいと、自分の意思を誰かに伝え、やりとげることはできる。車いすを押してもらっても行き先を決めるのは自分であり、自立とは自分の人生を自分で選ぶことだと思う。
昨年、悪性リンパ腫で入院した。寝たきりで天井をいつも見ているがん患者の女性がいた。抗がん剤を打ちながら口述筆記を続ける私に彼女は「なぜ、そこまでやるの」と尋ねた。私は「売店に行って買い物をしたり、車いすで動いたりした方が楽しいでしょ」と答えた。彼女がリハビリを始めたのは間もなくだった。
重度の障害を持っているからこそ訴える力がある。長年足指でキーを打ったせいで首を痛め、手術を3回受けた。もう無理はきかないが、人々にこう語り続けたい。「自立してますか?」と。」
なるほど、パターナリズムを欲する人々もいるものの、自立にこそ大きな価値を見出す障害者もいることを再認識させられた記事であった。