大森理恵、辺見じゅん編『盲目の俳句・短歌集 まなざし』(メタ・ブレーン、2000年)
本書は、その題名が示すように、全盲の方々(弱視者も含む)から「北海ジャーナル・声の文芸教室」に寄せられた昭和46年から平成10年までの優秀作、俳句6,088句、短歌5,416首のうち、俳句は大森理恵、短歌は辺見じゅんが選んだものである。本稿では、このうち、俳句部門についてのみ、言及する。
そのうち、本書で上記大森に選ばれた俳句は、300句である。俳句には、正岡子規が「ありのまゝ見たるまゝに其事物を模写する」写生という創作理論がある。たとえば、下記の句が写生句である。
この頃の蕣(あさがほ)藍に定まりぬ
樽柿を握るところを写生かな
ところで、「ありのまゝ見たる」ことができない盲目の方は、どのような俳句、写生句をよむのだろうか、というのが本書を読む前に筆者が抱いた初発の疑問であった。そこで、実際に本書を読むと、にわかには盲目の方がつくられた句とは考え難い俳句があった。たとえば、次に示す句である。
春寒や指文字残る汽車の窓
観覧車涼し二つの海見えて
二の腕の弾み涼しや太鼓打つ
上記句をよむと、全盲の方がどうして、「指文字」や「二つの海」、「二の腕の弾み」が見えたのか、という疑問が生じるのである。それとも、作者は全盲ではなく弱視者であるため、辛うじてそれらが見えたのだろうか。
ここで、山本健吉の「写生について」(『俳句とは何か』所収)に当たると、「写生とは自分が体験したなまの事実を描き出すことではない。むしろなまの事実の拒否の上に成立つものだ」と記されている。
なるほど、この論が成立するのであれば、「写生とはなまの事実を描き出すことではない」ことになる。そうであれば、写生句において、大事なことは、対象を見ることではないのかもしれない。もしかすると、感じることが見ることよりも大事なことなのかもしれないと思わされたものである。