1)初出に関して
明治24年(1891年)1月28日(執筆当時28歳)、吉岡書籍店発売の定期刊行叢書「新著百種」(新刊書下ろし小説叢書)第12号に、「鴎外漁史」の雅号で発表された。鷗外、鷗外漁史以外にも、紺珠居士、観潮楼主人、千朶山房主人、帰休庵等の雅号を使用していた。
ちなみに、島崎藤村の藤村、田山花袋の花袋も、同じく雅号であり、これは中国、日本の文人墨客の間では大正末年まで続いた伝統であった。
その後、本作品は『水沫(みなは)集』、『改訂水沫集』『塵泥』に収録された。
『改訂水沫集』序に、「文づかひ。索遜國機動演習の記念なり。うたかたの記はMuenchen、舞姫はBerlin、これはDresdenを話説の地盤とす。わが留學間やや長く淹留せしは此三都會なりき。」とある。
鷗外は、その前年、明治23年1月に小説の第一作『舞姫』を「国民の友」に発表、続いて、同年8月「柵草紙」に『うたかたの記』を発表。
その翌年、上記のようにこの『文づかひ』は発表された。
2)ドイツ土産三部作
上記の三つの短篇小説の創作によって、鷗外は明治20年代の日本の文学界に清新なる風を送ったが、小説はその後、明治30年に『そめちがへ』を発表するも、それは“西鶴風の戯作といふべき”(小堀桂一郎)作品であって、批評家、美学者、外国文学紹介者としての文筆活動にのみ専念し、なぜか本格的な小説の執筆は長らく控える。
この潜伏期を過ごした後、明治42年に「昴」に発表した『半日』によって、小説家としての鷗外は復活を遂げることになる。
『改訂水沫集』序にあるように、上記三篇はいづれも、鷗外が22歳から26歳にかけての満4年を越えるドイツ留学期の体験に素材を得ていることから、“ドイツ土産三部作”という呼び方で一括し、後年の作品群から切り離し、独立して扱われることがいつの頃からかの慣行となった。
それには、素材と、執筆された年代の二要素以外にも、文体が後の作品と違って、文語調の所謂雅文体であることから、このように別扱いする根拠があるようにも思われる。
3)当時の鷗外の私生活
この小説は後年、フランスから移入され本邦の文学界を席巻することになる自然主義が根付く以前の作品なので、作者の私生活と作品の間には直接的な連関が認められないことは、明らかでありますが、当時の鷗外の私生活をめぐる事実関係をかいつまんで以下に記します。
明治21年9月8日、留学先のドイツからロンドン、パリを経由して鷗外帰国。その船から一船遅らせて、『舞姫』のヒロイン「エリス」のモデルといわれ、ベルリンにおいて、鷗外と恋仲に陥ったと目されるエリーゼ・ヴィーゲルトが、追って12日に来日するも、鷗外の弟らが会い、10月17日に帰国させる。
この間、鷗外は一度としてエリーゼに会わず、専ら人を介して交渉し、横浜から帰途の船にエリーゼを乗せた、と伝えられていたが、星新一の『祖父・小金井良精の記』(河出書房新社)によれば、少なくとも二人は二度は会っていた、のだそうで、わざわざ独逸から日本まで鷗外を慕って来たのだもの、やはり二人は会っていたのでしょう。
なお、このエリーゼとの結婚を鷗外は実のところ希望していた、そこまでは無理としても、少なくとも恋焦がれていた、との推理が成り立つとの説を成瀬氏正勝さんは唱えている。
それが証拠に、鷗外は死の直前、妻志げに自分の面前で、エリーゼの帰国後も継続して彼女と交わした手紙とそれに同封してあった写真を、焼却させたそうである。
明治22年3月。西周の媒酌により、海軍中将男爵・赤松則良の長女・登志子と結婚。
明治23年9月。長男・於莵(おと)出生するも、妻・登志子と離婚。住んでいた家が新興の権門である妻の実家赤松家の持家であったために、夫である鷗外の方が、家を出て行くことになる。
鷗外の再婚はその12年後、明治35年1月、判事・荒木博臣の長女・茂子(志げ)との間に成る。
明治24年1月。上記のように、本作『文づかひ』発表される。
4)『独逸日記』にみる『文づかひ』のモデルと『文づかひ』の終わり方
後に、鷗外の『独逸日記』が公刊されてみると、物語の舞台にも主人公のイイダ姫の俤にも実在のモデルがあったことが明らかになる。
しかし、作中の核心となる事件と、それの持つ心理的意味づけは鷗外の創作であった。
その点で本作品は実際には、『舞姫』の場合よりもはるかに直接にまた密度濃く作者自身を反映し、その内心のうめき声(=“戀ふるも戀ふるゆゑに戀ふるとこそ聞け、嫌ふもまたさならむ”)を伝える作品であった。
しかし、モティーフと道具立てとの絡み合わせ方が巧みにできているために、作者は自分のことを実は書いていた、ということを到底読者に気取られぬように、配慮していた。
『文づかひ』の終局は哀愁を帯びたものとなっているが、それは同時に、海外で謳歌した鷗外の青春が帰国したことで終息し、鷗外の人生が鷗外一個の人格にのみ拘束されるものではなく、開国した明治の日本という国家をある意味で背負うことになる、国家に拘束され貢献しなければならない新たなる人生への決意をそこに籠めた、哀愁であるように思われた。