タイトルからもお分かりのとおり、レストランを星の数で格付けするように、エコノミストを、リフレ派(後述)の面々が格付けしたものが、本書です。
2003年度の国内総生産(GDP)の成長率は3.2%と、もはや「力強さに欠ける」という指摘は当たらない水準にまで日本経済は回復したとはいえ、デフレからの完全なる脱却が達成されたとは未だに言えませんし、失業率も下がったとはいえ依然として低水準ではありません。
外需を支える中国や米国への供給は好調を維持しつつも、国内の需要不足は、依然として解決されてはいません。ですから、米中の経済成長が鈍れば、てきめんに日本の経済成長にも陰りが生じることでしょう。
家計消費を支える所得の伸びはまだ鈍く、金融に眼を転じれば、4大メガバンクの一角を占めるUFJ銀行では、相も変わらぬ不良債権問題が病巣深く根を張り続けたまま、三菱東京フィナンシャル・グループに呑み込まれようとしています。
あるいは、財政出動を続けた結果増え続ける累積赤字はどうやってファイナンスするのか。
このように、日本経済は依然として、漂流を続けたままなのですが、それに的確なる進路を与えるべきエコノミストはいったいどこにいるのか、というのもまた、日本の経済学界の問題でもあるのです。
というよりも、日本にグリーンスパン(FRB議長)がいれば、この不況は、すでに克服されていたのではないか、という思いを抱かされたのが、本書を読んでの感想です。
本書を書店なり図書館なりで見かけたら、まず、26〜7ページをごらんになるといい。そこでは、エコノミストを構造改革派とリフレ派、そして分類不能の3極に腑分けしています。
このリフレ派を形成する考えは、「新古典派総合」といって、ケインズ以前のいわゆる新古典派経済学とケインズ経済学を総合して考える現代経済学の立場です。
構造改革派には、不良債権派と産業構造調整不良派とそのほかがあります。
もうひとつ、「分類不能」というクラスターがあるのが、いかにも日本のエコノミストの分類法らしいではありませんか。
なかでも、ポジショニング派というのはケッサクです。それは、マスメディアの需要に極めてフレキシブルに対応する人びとと、定義しています。そこに5人の面々が名を連ねていますが、果たしてそれだけで済むのかと、ちょっと評価が甘い気もしますね。
第1章のエコノミストナヴィゲーションでも触れていますが、日本には経済学の基本的な水準すら満たしていない、野口旭のいう「世間知」で構成された経済政策が猖獗を極めています。
しかもそれが、現実の経済政策に影響を与えているという由々しき問題があります。
それを受けて、田中秀臣は日本経済界の論壇は、世界の経済学派とは一線を画しているという現実を指摘しています。
よくいわれるマルクス経済学と近代経済学の対立以前に、もっと深い対立があって、そのいずれも反経済学と親和性がある、という現実があるのです。
ここでもう一度、リフレ派と構造改革派の色分けをしてみましょう。
リフレ派は、いまの日本経済はその本来の実力以下の状態にあると考え、これは総需要が不足しているから起きているので、それを増やすために、財政支出を拡大させたり、金融緩和で投資を促進させたり、円安によって外需を増やしたりする必要があるといっているのです。
一方構造改革派は、本来の日本の実力そのものが下がっていると考えているため、マクロ政策は意味がなく、構造改革で潜在成長率を引き上げ、構造的失業を解消するような改革が必要であると主張するわけです。
紙数の関係から通り一遍の説明しかできませんが、詳細は是非、本書にあたってご自分でお確かめください。
さて、時あたかも参議院選挙のさなか(6月28日)なので、本書で取り上げているエコノミストでは唯一候補者となっている、竹中平蔵金融・経済財政政策担当大臣(自民党・比例)のことを、本書では、どう評しているのかを、かいつまんで御紹介しましょう。
彼(竹中平蔵)の本来の政策スタンスは、構造改革派でアンチ財政出動派ですよね。金融政策について言えば、それほどアンチではなくて、その意味ではリフレ派とも言えます。不思議なスタンスですね。ただ、一番気になるのは、マクロ政策に頼るのではなくて、構造改革をやれば需要も伸びると考えているところです。これは、クルーグマン『恐怖の罠』(02年中央公論新社)に言わせれば、「暗闇への跳躍」でしかないわけですが。
経済ジャーナリストの東谷暁は、『誰が日本経済を救えるのか!』(02年日本実業出版社)のなかで、竹中平蔵を評して、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』に出てくる「顔なし」というキャラクターのごとく、その時々に飲み込んだ他人の説をあたかも自説であるかのように論じることができるエコノミストと書いていますが、そのとおりなのかもしれません。