先日、友人からどうしてもと頼まれ、その日は幸か不幸か悔しいことに、なにも用事が入っていなかったので、依頼された芝居を見に行きました。
その芝居とは、歌舞伎でも新劇でも新派でも翻訳劇でもなく、ぼくが初めて見る種類の芝居でした。あえて命名すると、「アイドルを目指す若い女性が観客に感動も笑いも涙も何一つ与えることなく、覚えた台詞をただ一方的にしゃべりまくる芝居」とでも言えましょうか。
そのように芝居自体は、ティーンエイジャーの女性がなにごとかを喋りながら舞台を跳ね回るという、小学校の学芸会にいくらかの手を加えたかのような、箸にも棒にもかからない、観客に忍耐力の涵養のみを強いるものでしたが、罪なのは彼女達よりも、それをビジネスにしてしまう業界です。
その芝居が打たれた小屋のキャパは、200ちょっとといったところでしたでしょうか。観客席の前部を占めるお客さんは、出演者の友人、親族、加えてさほど多いとは思えないけれどなぜかいる、純粋のお客様。後部を占めるのは、ぼくのように動員で駆り出された客、というごく分かりやすく構成された観客分布とぼくは見当をつけました。
そこでぼくは強く思いましたね。ぼくも落語家として独演会を開いていて、よく分かるのですが、たしかにぼくの会にしたところで、すべてのお客様が自発的に来てくださっているという理想の状態には及ばず、義理で仕方なく来てくださっているお客様もいくらかはいらっしゃるでしょう。これは強く反省しなければいけないところです。
けれど、圧倒的多数のお客様は、自らの意思で御来場いただいているという自負もあるのです。でなかったら、そうそう独演会を継続していくことは出来ませんから。
くだんの芝居にしろ、ぼくのような非自発的な入場者がどれほどいたのかは、もちろんぼくが確認できるものではありません。しかし、ぼくが動員によって来場したというのは、これは紛れもない事実です。
諸外国との比較は出来ませんが、日本は動員によって成り立っているところが間々見受けられる社会ではないでしょうか。おそるべし、「動員」とでも申しましょうか。
たとえば、組合の力が衰えたとはいえメーデーにおける、組合員の動員は紛れもない事実でしょう。当然、それが敷衍したかたちで、民主党や共産党、社民党の選挙応援にも関係してきます。
あるいは、宗教と密接な関係をもつ政党=公明党が行う選挙における動員ぶりも、広く世に知られたところです。
もちろん自民党も、さまざまな関係団体や議員の後援会組織を通して動員まがいの選挙協力を仰いでいます。
その影響力は以前に較べれば弱くなったとはいえ、厳然として存在しているのです。たしかに、今日の日本は、さきの長野県知事選挙にも見られるように、政党の影響力が相対的に低下し、特定の政党を支持しない無党派層が、多数を占める政治状況ではあります。
しかし、それはあくまでも全有権者に対する比率であって、投票者に限ってみれば、政党支持者の意向が強く反映されることになります。それは、無党派層の投票率が必ずしも高くないことから導かれる結果です。
無党派層が投票を決める理由は、候補者の政策、主義主張に由来され、そのときどきの中央政治の状況に左右されるのに較べて、動員や働きかけによる投票行動は、その候補者のことはよくは知らないけれど、知り合いの方に頼まれたから、という他律的なものに大きな影響を受けます。
つまりいままでは、政策や主義主張で選択されずに、縁故関係によって投票を決めさせていたのですから、おのずとその選挙活動は、縁故者の開拓へとその主力が向けられていました。
けれど今までのようにだれが議員になろうがさほどの違いが生じない、つまり役人が政治を実質的に動かしていた時代は過去のものへと後退し、役人の影響力の相対的な低下に伴い議員の力が増している今日、動員や縁故ではなく、自律的に政策や主義主張によって議員を選別するべき、本来の民主主義の時代が、遅ればせながらやっとこの日本にもやってきたのではないでしょうか。
そんなことを思った、芝居見物の夜でした。