心理学者小倉千加子のエッセイ(これがむやみに面白い)に、“テレビはバカが作って、バカが出演し、バカが見る”との記述がありましたが、ぼくはほとんどテレビを見ないので、テレビ番組がどれほどバカに汚染されているのか、知る立場にありません。
ではテレビが我が家にないのかと聞かれれば、「映画を見るために一応ある」とお答えしています。
見る映画はエンターテインメントに限られます。小難しいだけで面白くない映画には一切食指が動きません。
たまに映画を見ないと禁断症状が現れるので、先日「パニックルーム」と、世評の高かったスペイン映画「蝶の舌」を続けて、レンタルビデオショップで借りて見ました。
片や典型的なハリウッド映画=手に汗握るサスペンスと勧善懲悪ヒューマニズムに貫かれた、決して観客の期待を裏切らず、分かりやすい面白さが横溢した作品であり、片やスペイン内戦を時代の後景に配し、小学生と老教師の交流を展開のメインに据え、「犬と女」「兄と中国女(どうして、この時期のスペインに中国の女性がいるのか、不思議)」「青い楽団」などの副次的なエピソードを交え、沢木耕太郎が“衝撃的なラストシーン”と記す、大団円へといたるこの映画は、素朴で万人受けはしないものの、心がこもった手作りの料理をいただいたときにのみ味わえる、深い風味をたたえた作品へと仕上がっています。
ぼくとしては、圧倒的な面白さによって見るものの眼を一瞬たりとも画面から逸らさなかった「パニックルーム」の巧緻な映画作りに手に汗握ったものの、「蝶の舌」のその地域性と時代性に根付いた切ない思いに、より一層強く惹かれたのでした。
今月は、ご存知のとおり自民党総裁選挙が行われています。20日の開票日を待たず、もう勝敗は明らかであって、小泉総裁が再選されるのを、もはやだれも疑うものはいません。
小泉首相の勝因は、小泉以外の総裁が誕生した場合、それで果たして新民主党に勝てるのかという、選挙を目前に控えた議員の、真情です。
つまり、小泉以外の候補者は小泉の敵ではないと言うことです。誰と一緒のポスターを作れば新民主党に勝てるのか=「選挙の顔」を考えれば、投票すべき人はおのずと決まってくるでしょう。
今回の選挙で最も得るものが大きかったのは、立候補することで目的を果たした藤井孝男です。一度運輸大臣(当時)として入閣したものの、橋本派では鈴木宗男の陰に隠れ存在感が薄かったのですが、鈴木宗男が拘置所に収監されている間に着実に派閥内での地位を固め、これでようやく“そんな人もいたのか”と世間で認知してくれるようになったのでした。
そこへいくと亀井静香は、それまでの言動からしてまったく説得力に欠ける死刑反対論を急に唱えてみたり、ファッションに気を遣うようになり、今まで意識したことも無かったであろう女性党員のこころをつかもうと足掻きとも思えるような努力はしましたが、結局、女性党員はもちろんのこと、旧来からの支持者からも、そっぽを向かれてしまう始末。付け焼刃ははげ易いを地でいったのが、その訴えた政策です。
高速道路の夜間無料化など、ばらまき型の政策を訴えれば訴えるほど、その財源はどうするの、と有権者は不安に陥ります。
財政を出動させて、国債をどんどん発行した結果、金利が上昇し、企業はそれに耐えられず、倒産が相次ぐのではないかと。
いまどきの有権者は面白いもので、あれもできないこれも無理だ、というとその候補者を支持し信頼してくれるのです。昔とは逆なのですね。
亀井が本当に「弱い立場の人たちを強くする社会」を目指すと言うのならば、「低所得者からは、消費税は取らない」ぐらいのことを言えばいいのに。
高村正彦は、「誰を支持すればいいのか分からないから出ました」と言ってるようなもんで、議論に加わる口調からも、どうして立候補したのか、まるで思いが伝わらない、やる気の無さが最も顕著に感じられる候補者でした。
小泉首相が圧勝すれば、竹中平蔵経済財政・金融大臣の首も安泰と言うわけですが、さて、竹中平蔵が唱える改革路線は、一言でいえば、アメリカングローバリズムへの同調です。一定のルールを決めた後は、弱者を切り捨て優勝劣敗の名のもとに、ダーウィニズム=弱肉強食を肯定する競争社会をおし進め、個人の自立を目指し、成功者には富をもって報い、敗残者には脱落を余儀なくする社会を招来しようとするものです。その現われが、サラリーマンの医療費自己負担3割への引き上げです。死者の骸を乗り越えながら勝者は進みなさい、というのです。
ぼくは、この考えには鋭く反対するものです。
日本のとる道は、社会の責任で最低限の保障を実現する、公助社会ではないでしょうか。少なくとも、日本は今までさまざまな無駄を確保することによって、既得権益の持ち主を異様なほどに保護するシステムをとっていました。
たとえば、酒類販売業者への既得権益の保護のように。たしかに、そのおかげで、消費者は高い酒を買わされていた面は否定できません。規制を緩和した結果、ご存知の通り、消費者は安い酒を買えるようになりましたが、酒屋のご主人がどれほど転廃業を余儀なくされ、少なくない方々が自殺をされたとうかがっています。そのこともあわせて考えるべきではないでしょうか。
安ければ、好いのでしょうか。その結果、勝ち残ったのは、大資本家のみで、地元と密着した零細業者の衰退ぶりは眼を覆わんばかりです。
したがって、すべての規制を緩和するべきだとも思えないのです。酒類販売でいえば、規制は現役世代がいる間は、ある程度残しておくのも便法ではないでしょうか。その代わり、規制のおかげで富を蓄えた方の相続税は、税率を高く設定すれば好いのです。規制のおかげで蓄えた富を、社会に還元するべきだと考えるからです。それによって、生まれた時点での個人の平等は図られるのではないでしょうか。
簡単に言えば、北欧型の公助社会を実現すべきだと思うのです。
映画でいえば、米国が生んだ誰もが楽しめるけれど、味わいがないハリウッド映画よりも、地域性に深く根ざしているために、世界の誰もが楽しめるものではないけれど、かえってそれだけに分かるものには、深く心に沁みこむそれぞれの地域性を活かした映画の方が、ぼくは楽しめたのでした。
つまり、「パニックルーム」の面白さは否定しませんが、ぼくは、人間の本質に対するすぐれた洞察力を有した作品、「蝶の舌」の方を支持するということです。
それは取りも直さず、「蝶の舌」を生み出したのは、スペインという限定された土地とスペイン内戦という限定された時代ですが、ハリウッドが生んだ世界性を超越したものになっていると思うのです。