去る八月二十八日、七十九歳にしてお亡くなりになった作家の山田風太郎さんは、人が次々に物故して逝くさまを、”怒濤の如く死んでいく”と形容したことがありました。
本誌「民族芸能」にゆかり所縁の噺家も、正に”怒濤の如く”鬼籍に入る。例えば林家彦六師匠こそは、当会にとって欠かすことのできないその筆頭に挙げられる噺家でしたが、その高弟、橘家文蔵師匠が去る十日、心不全により六十二歳の天寿を全うされました。
たしかに文蔵師匠がこの十年来、心臓を患っても尚高座を勤めていたことは存じ上げてはおりましたが、この八月に六十二歳になったばかりの、余りに早過ぎる死出の旅です。まして、遺された唯一の弟子文吾さんが、橘家文左衛門を襲名しての真打披露を今月の下席から始めるその直前のことで、師匠としては、何と心残りだったことでしょうか。その心中や察するに余りあるものがあります。
文蔵師匠との想い出は、やはり学校寄席を通じてのものが数も多く、且つ鮮烈です。何しろ最も多かった時分に師は、年間百校近くの学校を巡っての公演をこなしていたというのですから、その数たるや他の落語家を大きく圧していました。先ずはしくじ失敗った話から。あれは、ぼくがやっと二ツ目になった頃でした。学校寄席は、云うまでもなく学校での公演ですから、自ずと午前中に催されることが多いのです。その日は前日の落語会の打ち上げで散々呑んだために寝過ごしてしまい、取る物も取り敢えず、公演の学校へと向かったのでした。その日は前半に狂言で、落語は後半に設定されていたので、遅れたとはいっても落語の時間には何とか間に合いましたが、どんな叱責があるのかとびくびくしながら楽屋に入ると、トリの文蔵師匠は「乱丈(ぼくの二ツ目時の名前)、遅かったな」と、一言云っただけでした。けれど、却って言葉数が少ないほど、聴く者の耳には痛く感ぜられたものでした。
立前座の頃、次の出番の文蔵師匠にネタ帳を差し出すと「おい、丈々寺(前座名)、何をやってもらいたい」とよく訊かれたものでした。そこでネタを云うと、高座で正にそのネタをやるのですから、「こりゃあ、すげぇや」と感心したものでした。あるいは、トリを取って三日目、どういうわけかその芝居に限って同じネタばかりやられる。高座から下りてくると、前座に向かって「どうだ、三回やったからもう覚えただろう」これにも参りましたね。
これも学校寄席で。「おい、丈々寺。学校寄席はいいぞ。何しろ、人の足を引っ張ろうてぇ料簡の噺家は一人もいないからな」まさ正しく、その”人の足を引っ張らない噺家”の代表と云ってもいいのが、かの文蔵師匠その人でした。本稿は大のコーヒー党だった師匠を偲び、コーヒーを飲みながらしたた認めたのでした。