先月号で、人はよわい齢を重ねると、山田風太郎の云うように”怒涛のごとき”人の死に接すると記しましたが、加藤楸邨は”天の川怒涛のごとし人の死へ”と詠んでいます。これは、天の川が見えるのですから通夜に向かう、弔問する人の胸の裡を詠ったものでしょう。
ご存知のように十月一日、古今亭志ん朝師匠が六十三歳の天命を全うされました。その通夜、”怒涛”の思いを抱きながら護国寺の会場へと向かい、焼香を待ちながら見る師匠の御遺影の、なんて素敵なお顔なのかと改めて、見とれてしまったのでした。いらっしゃった方はご存知のように、それはそれは素敵なお写真でした。お気に入りの帽子を被ってご機嫌な師匠の、その自然な仕種が、見るものを惹きつけて止まないうっとりとするような笑みを浮かべた師匠のお顔と相俟って、改めて眼に涙を浮かべる方が、ぼくの周りだけでも一人や二人ではありませんでした。
今日の落語界で、最も失ってはいけない人物を、我々は亡くしてしまったのでした。
それでも今は、喪失感に囚われることはありません。たとえば、何気なく活字を追っていてたまたま、「愛宕山」の字に出会うと、瞬時に頭の中に志ん朝師匠の『愛宕山』が聞こえてくるからです。あるいは、「元結」という字を見れば、志ん朝師匠の『文七元結』が、「子別れ」を見れば、志ん朝師匠の『子別れ』といった具合に、何を見ても志ん朝師匠の落語が聞こえてくるのですから、頭の中に響く音を聞いて、初めて喪失感に襲われるという二律背反を通じて、我々は初めて喪ったものの大きさを思うことになります。
昭和二四年に亡くなった六代尾上菊五郎丈の生前の姿を見た人は、それを見ていない人に密かに自慢したように、落語界で言えば、八代桂文楽師匠と古今亭志ん生師匠には間に合わなかった我々でも、三遊亭圓生師匠と並んで柳家小さん師匠と古今亭志ん朝師匠には、間に合ったのでした。
「好いかい、おれは実に情けない人生しか送ってこなかったけれど、志ん朝師匠の高座を見たことがあるんだぜ。それも、客席からはもちろんのこと、舞台の袖からだって、いいや、それどころじゃない。打ち上げじゃあ、志ん朝師匠と離れてはいても、一緒に酒だって飲んだことがあるんだぜ。前座の頃、上野から夜行で青森まで行く旅の仕事でご一緒させていただいたときには、打ち上げで志ん朝師匠とカラオケだって一緒に行っているんだい。それどころか、志ん駒師匠から頂いた仕事で毎年正月には、楽屋でただ一人っきりでお世話をさせていただいたことだってあるんだぜ。その流れで、二人っきりでつばめグリルのハンブルグステーキだって食べてるんだい。畜生、その志ん朝師匠とももうこの世の中で、永遠に会えないんじゃないか」いったい、どうすりゃあいいんだい。こん畜生。