落語家志望者は、「やれ嬉しや」師匠への弟子入りが無事叶うと、その日から身分的には見習いとなり、師匠や兄弟子から諸事万般を習い覚え、楽屋のことが一通りできるようになると、晴れて前座となり寄席で働くことが許されるのです。
すると、前座会に自動的に入り、太鼓の稽古や真打披露での働き方等を教わり、前座としての戦力を身に備えます。
その前座会で、単なる見習い落語家は一人前の前座へと変身するべく、実に様々なことを先輩から教わります。ぼくが当時の前座会長=今の橘家富蔵兄さんから真っ先に教わったことは、「まず、謝っちゃいな」ということでした。前座の仕事は謝ることだ、とも富蔵兄は言いました。先輩から咎められ、万が一非が先輩にあろうとも、先ず謝る。そうすればその後で、非は自分にあると先輩が自覚をすれば、汚名は晴れるし、あいつは「なかなか分かっている」とお覚えがめでたくなって、決して悪くは取られないから「何はともあれ謝んな」と、きつく言われました。
こういうことは学校では決して教えてはくれません。むしろ、すぐには謝るな、ぐらいのことを教えるのが日本の学校です。
話は変わりますが、先日、池袋から目白に向かって、豊島区立目白公園となっている、児童文学誌『赤い鳥』で有名な鈴木三重吉旧居跡の前を歩いているとき、肩に違和感を覚えて、見やると落下した鳥の糞が付いているのです。どうして、鳥の糞は白いのかと疑問に思いつつ、これから人と会うのに肩に鳥の糞を付けたまま行くわけにはいかず、といって待ち合わせ時刻には猶予がなく、どうしたものかと迷う間もなく、取りあえず、公園内のトイレに駆け込み、肩の糞を洗い落としました。「まぁ、いいか。これがほんとのウンのつき」だなぞと馬鹿なことを呟きながら。その結果、待ち合わせの時刻には遅れてしまいました。当然非は当方にあるので、前座修業で習い性となっているため何の抵抗も無く実にすらすらと謝罪の言葉は口に出るのでしたが、そのとき困ったのは事実どおりに、「落下してきた鳥の糞が付いたため遅れました」と、断るべきかどうかということでした。もしかすると、相手は単なる遅れた口実と受け取るのではないかとおそれたのです。だって、あまりにもありがちなうそっぽい言い訳だからです。ですから、ぼくは鳥の糞の一件はおくびにも出さず、ひたすら謝りました。謝りながら、前座修業はどこで役に立つか分からないものだと、つくづく思ったものです。
こんなことをぼくが言うのもおかしいのですが、日本の教育にかつてあって、今は無くなってしまったことが、かくあるべきであるということを、理屈ではなく身体に教えこませることではないでしょうか。それでなくても今の子供たちは頭でっかちなのですから。