あれはぼくがまだ小学生のころだったか、あるいは中学生になっていたかもしれません。今となっては判然としないのですが、日曜の午後、NHKのテレビ番組だったことだけはよく覚えています。それ以前から落語は、というよりは、テレビの演芸番組が好きでよく見てはいたのですが、それらの番組のコンセプトが笑いを求める視聴者の要望を満たす目的で作られていることは、子供心にも察知してはいました。ところが、そこで演じられている落語は、それまでに見たことがある落語とは一線を画し、演じる芸人は、無理に視聴者を笑わせようとしてはいないのにもかかわらず、見ているものは腹を抱えて笑ってしまうという、落語にとってはまさに理想的な演者とお客さんとの関係を、そこに現出させているのを子供心にも感得したのでした。そのときの落語家が、先日、大往生なさった柳家小さん師匠その人で、演目は『粗忽長屋』だったことを昨日のことのようによく覚えています。
そのとき、ぼくは生まれて初めて芸の力を小さん師匠に教えていただいたのでした。もちろん、まさかその後自分が、小さん師匠が会長を勤める落語協会に属する落語家になろうとは夢にも思ってはいなかったのでしたが。
昭和五十六年に師匠(円丈)の許へ入門したものの、当時は前座が必要以上におり、楽屋入りできたのは翌年の二月中席になってからでした。
楽屋で様々な師匠方のお世話をすると、高座とは又違った一面が見えるものなのですが、こと小さん師匠に関する限り、高座とは寸分も違わぬ駘蕩たるさまでいながら、小さん師匠が楽屋入りすると、楽屋はピーンと一本の糸が張られたような緊張感に一瞬にして支配されるのが常でした。小さん師匠は楽屋入りすると、たいてい先ずズボンをお脱ぎになって、ステテコ一枚で寛ぐ。そのズボンは独特の掛け方でハンガーに吊るされたものです。つまり、ズボンの折り目で掛けるのではなく、ベルトの穴にベルトを通したまま、そのベルトをハンガーに掛けるのです。思うに、折り目でハンガーに掛けると、ポケットの中に入れた小銭がばらばらと落下してしまうのを、ポケットの口を上向かせることで防ぐためだったのではないでしょうか。こうして右も左も分からない前座は、小さん師匠は合理的な考え方の持ち主だということを、知らされるのでした。
その小さん師匠が天命を全うされた五月十六日以降、江戸落語を体現した最後の落語家の死を惜しむかのように、せめてその雰囲気を改めて味わおうとするように、各寄席の客席には大勢の観客が詰めかけ、小さん師匠という巨星が堕ちた、その現実以外には合理的な理由が考えられない、大入りが続いたのでした。小さん師匠、本当にご苦労様でした。