『単なる紐を、華麗なる帯にしてしまう日本人の美意識』
現代は国際化の時代だといいます。グローバルスタンダード化の影響で、言語では英語の必要性が、日本でも高まるばかりです。そのために、私立では小学校から、英語教育を始めるところもあるそうです。
けれど、いくら英語を話すことができるようになっても大事なのは、その話す内容です。
たとえば、我々はアメリカ人に、ジャズやメジャーリーグのことを尋ねるように、米国人は我々に俳句、短歌、能や歌舞伎、あるいは落語について尋ねてくるでしょう。そのときに、ちゃんと答えることができる日本人が果たしてどれほどいるでしょうか。
そこで、今回からぼくが感じた落語に関するいくつかの話題を、随時採り上げてみます。
まずは我らが正装、着物について。我々は師匠のもとに弟子入りが許されると、実に様々なことを、教えていただくのですが、なかで、いまどきの新弟子では、そこで初めて着物を着ることになる者が、結構いるのではないでしょうか。かくいうぼくもそうでした。
なんといっても驚いたのが、帯でした。あれは、単なる一本の布です。それを身体に巻きつけることによって、着物と身体を馴染ませ、あわせて着物を身体に密着させる道具となるのです。ぼくは素人の時分、寄席で噺家を見るにつけ、あれはどうやって結ぶのか、興味津々だったその謎が、師匠に教わることによって解けたとき、その精妙さに、心中深く唸ったのでした。
噺家は袴を着けるとき以外は、貝の口という結び方で帯を締めます。何度もいうように、帯は、結ばなければ単なる紐に過ぎません。
それを締めることによって、ある目的を達する、有用な物へと変質させてしまうのです。
これは、西洋における帯、ベルトと較べれば、一目瞭然でしょう。あれは、たんに胴に帯状のものを巻きつけ、適当なところに穴を穿ち、そこでとめるだけのものに過ぎません。
帯の結び目の美しさと比して、ベルトの穴にはなんの美も発生しません。
たしかにベルトにはバックルがあり、それは装飾品でもあります。あるいは、こと結ぶことならば、ネクタイがあり、その結び方は巧緻と評しても好い精妙さを備えています。
けれど西洋人は面白いことに、バックルにしろネクタイにしろ、いずれも身体の中央で飾ろうとします。
それに比して、帯の美しさはどうでしょう。ベルトとは異なり、巻いてある身体一周分美しいのです。そのうえ、背中の結び目に現れた貝の口の綺麗なことといったら。惚れ惚れとしてしまいます。
だいたい西洋人のだれが、単なる紐を、バックルのような道具を使わずに、留めようなぞと思うでしょうか。それひとつ取ったところで、単なる紐に、帯という意味を付与した日本人の素晴らしさが、あると思うのです。