「学校はチャンスを平等に与えようとするけど、ここは学校じゃない。できるヤツに仕事は集中するんだ」
これは、あるビジネスマンの言葉ですが、ごく当たり前のことを口にしたに過ぎません。
たとえば、あなたがプロ野球チームの監督ならば、非力な打者をどうしてバッターボックスに送るでしょうか。それどころか、見込みがなければ、退団を勧めるでしょう。その方が、本人のためなのですから。
それに比して、学生野球の監督ならば、四年生の秋のリーグ戦では、それまで一度も打席に立たなかった野手を、温情で代打に送り出すこともあるでしょう。
ことほどさように、世は実力主義によって支配されています。
ところが、それだけではどうしても、納得できないこともまま見受けられるのが、世の中の面白いところでもあります。
先ごろ芥川賞を受賞した、綿矢りさと金原ひとみ、落選したSさんの作品の間に、格段の開きがあったとは思えませんが、受賞者をめぐる喧騒ぶりはご存じの通りです。
世の中は、理ばかりでは解決がつかず、情が大きく介在し、廻っているということに最初に気づかされたのは、前座修業を始め、寄席の楽屋に入るようになってからです。
前座に頼む仕事は、ほとんどの場合、誰でも構わないのです。ですから、頼む方は、たまたま楽屋にいるからという理由だけで、その前座にお願いをすることがあります。
それを芸人は、「間」で表現します。いわく、「兄さんの代わりで行った落語会で、○○師匠からお仕事をいただきました」「そらぁ、あんちゃん、間がよかったねぇ。じゃ、今度は寄席の代わりを頼んだよ」といった具合に。
面白いことに、始めは当の前座も周りも、「間」で仕事を受けていたと思っていたところが、そうではないことにやがて気づかされるのです。「あれっ」てなもんです。
そう、たしかに、始めは「間」で掴んだ仕事を、彼(彼女)は、やがて、もらうべくして仕事をもらうように、自らそう仕向けたのです。「あの前座ならば、間違いがないから、使おう」という具合に。
ところが、また、面白いことに、では、その前座が、二ツ目、真打と順調に育つのかというと、これがまた、分からないのです。
逆に「化ける」といって、それまでくすんでいた芸人が、急に輝くような芸を披露し始めることがあるのです。まさしく「化ける」としか言いようのない、変わりようを示すのです。
三月に入り、卒業式シーズンを迎えた折なので、老婆心ながら自分のことは棚に上げて、勝手なことを記しましたが、御寛恕を請う次第です。禍福は糾える縄の如し、です。