たしかに我々は高座では、着物を着ています。改めて言うまでも、ありません。
けれど、普段でも着物を着ているのかとなると、そんな咄家は、正月を除けば、ごくごく僅かなのです。
こんなことはわざわざ説明するまでもない、と思っていたのですが、世間様はそうはみていないことが多いので、敢えて記しました。
よく訊かれるのです。「普段は着物は着ていらっしゃらないんですか」と。
当たり前だっていうの、と言いたいのをこらえて、「そうですね。着物は手入れが大変ですから」と、ぼくは答えています。
ただし、ぼくも入門するまでは、師匠方が着物を着る際の着付けや、脱いだ着物を畳むことを前座が手伝うことまでは、思い至りませんでした。
つまり、噺家は寄席に出演する際、落語協会の場合十日ごとの興行ですから、人にもよりますが、初日以降は着物を楽屋に置いておくことが多いのです。
ですから前座は、どなたがどの鞄を使い、下足はどれかを、しっかりと把握しておかなければなりません。でないと、その師匠が楽屋入りしたときに、持ち物の鞄をスッと脇に置くことが出来ませんし、帰るときに靴を揃えて置くことが、出来ないからです。
これが冬であればなんら問題はないのですが、今時分あたりから夏にかけて、暑さのために肌襦袢が汗で湿る場合があります。
そんなとき前座は、濡れた肌襦袢を干しておき、翌日楽屋入りしたときに、一日経って乾いた襦袢を畳んで、その師匠の鞄に入れるのが、ひとつの仕事となります。
たいていの襦袢には既に、その師匠のお名前が記されているのですが、それがたとえ無くても、気の利いた前座ならば、干すときにどなたの持ち物か分るように、小紙片に名前を記して持ち主を分るようにして干すのですが、ドジな前座はそんなことには一切構わず、ただ干すだけ。
ドジでも干した前座が翌日も来ればいいのですが、運悪く昨日の前座が一人も来ず、前座がすべて代わりということがあるのです。そんなときはさぁ、一騒動です。
心当たりの鞄を開いてもすべて既に肌襦袢が入っているとなると、混迷の度は深まります。といって、どんな師匠でも、肌襦袢を着ないで着物を着ることはありえません。
そんなとき中には、機転の利くのがいて
「兄さん大丈夫ですよ。私なら分りますから」といいながら、やおら鼻を襦袢に近づけ臭いを嗅ぎ始めたのには驚いた。
「何やってんだ」
「臭いを嗅げば、どの師匠の襦袢か分りますから」
「おれは駄目だ。蓄膿だから」
古き良き前座のころの、実話です。