「民族芸能」vol.98
林家こん平師匠のネタではありませんが、寄席の客席は、芝居や歌謡ショウとは違って明るくするために、演者からはお客様の表情がとてもよく分かるのです。
というよりも、お客様の表情を見ながら高座を勤められるようにとの配慮から、客席を明るくしているのです。
林家こん平師匠のネタではありませんが、寄席の客席は、芝居や歌謡ショウとは違って明るくするために、演者からはお客様の表情がとてもよく分かるのです。
というよりも、お客様の表情を見ながら高座を勤められるようにとの配慮から、客席を明るくしているのです。
この連載ではここのところ、追悼文をずいぶんと書いてきましたので、今回の朗報はとりわけ嬉しく、パソコンのキーボードを打つ指は軽く、弾む気がする、というのはまったく誇張ではないのです。
というのも、「民俗芸能を守る会」の事務を一手に束ね、また、この会報の実質的な発行人として、同会の発足から余人をもって代えがたい職掌を担ってきた茨木さんが、めでたくご恢復を果たされたからなのです。
落語家はひとりの例外もなく、師匠への弟子入りが許されることによって、入門が果たされます。そう、まさしく門に入るのです。そうして、師匠を同じくする兄弟弟子によって、一門が作られていきます。
面白いもので、数多(あまた)いる噺家のなかから、同じ大先達を師匠と仰ぐのですから、どこか似たところがあるのでしょう。まさに、類は友を呼ぶのです。そうして、師匠を同じくするものは、おなじ釜の飯を食っているうちに、その一門の芸風を作っていきます。
高度経済成長が終了する以前、たとえば東京オリンピックが開かれた昭和三十九年の日本は、まだ、戦前に連なる光景を至るところで見出すことができました。昭和三十四年生まれのぼくは井戸を、ごく自然に使っていたように。
戦前と、大正や明治は、すでにして多くの違いが随所に見出せたのでしょうが、また多くのものも共有していたのではないでしょうか。そして、明治と江戸時代とは、これまた文明開化を経ているとはいえ、庶民の生活のうえでは、まだ江戸の残滓を当然のこと、多く含んでいたはずです。
『単なる紐を、華麗なる帯にしてしまう日本人の美意識』
現代は国際化の時代だといいます。グローバルスタンダード化の影響で、言語では英語の必要性が、日本でも高まるばかりです。そのために、私立では小学校から、英語教育を始めるところもあるそうです。
けれど、いくら英語を話すことができるようになっても大事なのは、その話す内容です。
たとえば、我々はアメリカ人に、ジャズやメジャーリーグのことを尋ねるように、米国人は我々に俳句、短歌、能や歌舞伎、あるいは落語について尋ねてくるでしょう。そのときに、ちゃんと答えることができる日本人が果たしてどれほどいるでしょうか。
『古典落語』が講談社学術文庫に収録される。落語って、学術でしょうか、の巻。
先月十五日の朝刊に掲載された、講談社の広告を見て驚きました。
それは、学術文庫の一冊に興津要先生が編集した、『古典落語』が加えられたという広告でした。もう一度書きます。講談社学術文庫に『古典落語』が収録されたのですよ。
この本は言うまでもなく、昭和四十七年から四十九年にかけて講談社文庫から刊行された『古典落語』(全六巻)が絶版になったのに伴い、学術文庫に再収録されたものですが、いくらなんでも学術文庫とはねぇ。
これを快事として歓ぶ噺家が、いったいいるものでしょうか。
「小林信彦『名人 志ん生、そして志ん朝』(朝日新聞社)を読んで」
『一冊の本』(朝日新聞社)の今月号をもって、作家の小林信彦先生(以下、先生と略す)が連載していた「志ん生、そして志ん朝」が完結しました。早くも来月には『名人 志ん生、そして志ん朝』と改題されて上梓されますから、その折の再読を楽しみにしていますが、完結したので、バックナンバーが手許にないため雑駁なものとなるでしょうが、読後感を以下に記します。
『落語協会HPの宣伝を兼ねて』
まったく時代というものは、せっかちなものでして、一瞬たりとも一箇所に留まろうとはせず、まさにイオニアの自然哲学者ヘラクレイトスが言ったように「万物は流転す」るようです。
ほんの二年ほど前まで、新聞を開きテレビのニュースを見ると、IT(情報技術)ばやりで夜も日も明けないといった風潮でした。
そのおかげで、今や電子メールはごく一般的な情報伝達手段として、相当数の日本人が使うようになったわけです。
つい先だって、8月30日に映画監督のJ・リー・トンプソンが88歳にしてお亡くなりになりました。代表作に「ナバロンの要塞」や「恐怖の岬」があります。
この監督による「恐怖の岬」は見てはいないのですが、ロバート・デ・ニーロ主演で「ケープフィアー」と改題されたリメイク版は、テレビで見たことがあります。
何度もテレビで放送されていますから、この「ケープフィアー」をご覧になった方は多々いらっしゃるでしょうが、念のためごく大雑把に筋をお話しますと、弁護士の腕が悪いから、実刑を課せられたと思い込んだ被告が、出所後、その弁護士に嫌がらせをし、遂には自分が破滅してしまうというものでした。
北半球にいる限り冬寒く、夏暑いのはごく当たり前のことです。それにつけても、八月半ばの東京の暑さは殺人的です。この暑さじゃ、人だって死にます。だから、十九世紀最後の年、一九〇〇年八月十一日に三遊亭圓朝師匠は冥界へとさらわれてしまったのでしょう。そう、落語界中興の祖、圓朝師匠でも亡くなるのが不思議でないほど、今年の八月十一日も暑かった。特に、圓朝師匠の菩提寺全生庵は暑かった。
二十一世紀に入り、装いを改めた圓朝忌が「圓朝まつり」として見事にバージョンアップしたのです。圓朝師匠のお導きにより、落語家とお客さまが全生庵の境内を交歓の場としたのが、今年始まった「圓朝まつり」だったのです。
町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打