町田市議会議員 会派「自由民主党」/(一社)落語協会 真打 三遊亭らん丈【公式ウェブサイト】

三遊亭 らん丈

「公と私」町田の、らん丈

2003.05.19(月)

 「119」(平成6年松竹)という映画をごらんになった方は、さほど多くはいらっしゃらないとは思いますが、ぼくにとってはお気に入りの一本です。

 ご存知ない方のためにご紹介しますと、原案と監督、脚本、出演を竹中直人がつとめ、脚本はほかに、筒井ともみと宮沢章夫(彼の脱力エッセイもぼくは大好きです)が担い、出演は赤井英和、鈴木京香。ほかに浅野忠信、真田広之、久我美子等。音楽は忌野清志郎という、予算はかなり低かったのでしょうが、なかなか豪華な布陣で作られた映画でした。

 内容は、いずことも知れぬ海に面した、とある町とも村ともつかぬようなごく平凡な地域にある消防署(撮影地は静岡県の三島だったそうです)の何も起きない日常を淡々と描いて、それでいながら観客に、何も起こらない日常の素晴らしさを再認識させてくれる、静かな叙情を満喫できる素敵な、映画でした。レンタルビデオショップにはかなりの確率で置いてありますので、未見の方には、日常生活にお疲れの折のご鑑賞をお奨めします。

 まさか、その映画を見た当時、そこに描かれたような消防署員と、いわば縁戚関係といっても好いような、消防団員に自分が将来なるとは思1分団第3部団員として、発令を命じられたのでした。早い話が、消防団員を任じられたわけです。

 それから半年を経て、いやこれほど消防団のために時間が割かれるとは思ってもいませんでした。たとえば、5月11日は、町田市及び町田消防署と町田市消防団が合同で「平成15年総合水防演習」が、三輪緑山にある鶴見川クリーンセンターで実施され、ぼくは消防団員として参加しましたし、それ以外にも、第3部では月、木、金曜日は午後8時から10時まで、操法(消火活動の一環)訓練を行い、毎月一の位に3がつく3、13、23日は午後9時半から詰所に参集し、器具の手入れをしています。

 これなどは、ぼくのような班員という最も下級の団員に最低限課せられた任務でして、これが分団長クラスともなると、年間200日以上の会議招集があるのだそうですから、なんともいやはやご苦労様なことです。

 それでいながら、消防団員は特別公務員ですから報酬はあるものの、その金額は町田市消防団第1分団の場合は、各部でプールしておき慶弔費や通信費、飲食代に充てるために、各人には一切支給されません。もっとも、これほどの労力をただ、お金目当てのためだけに、どうして供出できましょうか。そこにあるのは、口幅ったい物言いで大変に恐れ入りますが、公共のために殉じる精神の発露、と解釈することが妥当なのではないかと思われます。

 そもそもぼくは平成9年に、消防法施行令第3条第1項第1号の規定による甲種防火管理講習の課程を修了し、防火管理者の資格を持つものですが、消防にはまるで関心のない単なる一市民に過ぎませんでした。それが、どうして43歳にして、消防団に入団したのでしょうか。

 それには、ほかにも書いていますが、ぼくが平成11年に交通事故に遭ったことが色濃く反映されています。右脚を骨折し全治4週間の怪我で入院し、ギプスで固定された右脚を横たえて寝たベッドから所在無いままに天井を見上げながら、当時40歳のぼくは、内村鑑三のあまりにも有名な著書『後世への最大遺物・デンマルク国の話』(岩波文庫)にある、「われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりともよくして往こうではないか」という言葉を、飽きもせずに頭の中でなんどもなんども反芻していたのでした。

 そのとき痛切に思ったのは、自分はこれまで好き勝手に生きてきたけれど、果たしてこのまま死んでしまってよいものか、というごくシンプルでありながら、ラディカルな問いでした。

 答は、「それはまずいだろう」というものでした。折角この世に生を得たのに、ただ、おのれの欲望のままに生きてきただけの生涯で、その生を終えてしまうのは「まずい」というものでした。

 それからは、しきりと「公」というものを意識して生活を送るようになりました。たとえば、尖端恐怖症のため注射を極度に恐れる性質なのにもかかわらず、意識して献血に精を出し、今月の8日現在69回の献血をしています。

 また、当時住んでいた墨田区では平成11年度「区政声の協力員」に応募し、区長よりその任を委嘱されましたし、あるいは、平成12年度に立教大学経済学部3年次に編入学したときには、躊躇することなく「公共経済学」という科目を履修しました。

 そんな折、町田市のいたるところで消防団員募集のポスターを眼にするようになったのでした。そこで、いささか薹が立っているものの、思い切って入団を申し込んだのでした。

 その願いは難なく上記のように受理されたものの、いやはやぼくのように、運動神経ゼロにして制服は中学生以来というものにとっては、驚きの連続となる世界がそこでは展開されていたのでした。それは一言でいえば、どんな些細な行動にもすべて「型」があるといってもよいでしょうか。たとえば、消防車のドアの開け方ひとつとっても、それは「型」を踏襲しなければいけない、といった具合に。

 先ほどの「公」に話を戻せば、その延長線上に、平成14年に執行された町田市議会議員選挙への立候補があったのでしたし、また、平成15年度の「東京弁護士会モニター」への応募と、その委嘱。あるいは平成15年5月から17年5月までをその任期とする「町田市廃棄物減量等推進審議会市民委員」への応募と、二次にわたる選考を経てのそれへの就任といったことが、挙げられるのではないでしょうか。

 また、昨年度に引き続いて今年度は「まちだ市民大学HATS」で、「町田の環境・参加体験講座」を受講しています。

 そんな関係で、最近は生涯学習をテーマにした講演の依頼が、らん丈にありますので、この欄をごらんの方の中にも、講師を探している方がいらっしゃいましたら、私でよければ是非伺わせていただきますので、ご連絡をお待ちしております。