落語家と他の職業人と最も違うところはどこか、と問われれば、ぼくは何のためらい躊躇いもなく「弁慶の泣き所」と答えます。何だそれは、とお思いでしょう。ならば、しばしの間お聞き下され。
”落語”ときいて、皆さんはまずどんなことを想像されますか。ある人は、着物と答えるかも知れません。たしかに我々のユニフォームは着物ですから、なるほどと思います。あるいは座布団と答える人がいるかも知れません。TV番組『笑点』の影響もあるでしょうが、落語家は座布団に座って一席うかがうので、これももっともな答えです。古臭い、との感想を頂いたことがありましたが、300年の伝統にのみ眼を向ければ、どんなに年若い落語家でも、爺むさく見えてしまうのも無理はありません。
いずれもごくもっと尤もなお答えですが、やはりぼくは「弁慶の泣き所」と言いたい。つまり我々は、先述のように座布団に座って落語=仕事をする、一種の座業です。他の座業の方々は大抵あぐらをかくのに比して、われわれは正座です。すると、弁慶の泣き所で自分の体重を支えて座るわけです。その結果、落語家のほとんどは毛臑を持つ成人男子なのですが、向こう臑の外側、つまり臑でも正座したときに体重を支える側、の毛根が磨滅して臑毛が生えなくなってしまうのです。これには我ながら驚きました。まだ前座の時分でしたが、気付いたら臑毛、特に右側の臑の毛が磨滅して、あたかも乙女の如くすべすべの臑へと変じているのを発見したとき、初めて自分が落語家になったとの自覚を持つことができました。同時に、男に生まれた喜びもしみじみと味わったのでした。なぜなら女流落語家ならば、こうまで劇的な変化が臑毛に及ぶことはないであろうと、思ったからです。
こう書くと、読者の中には眉に唾をつける方が出てくるかも知れません。いくら落語家が正座をするからと言って、なにも臑毛がなくなるわけは無かろうと。たしかに、どんなに稽古熱心な落語家でも、座布団に座って稽古をしている限り、臑毛がなくなることは、相当長時間の稽古をしない限りあり得ないでしょう。けれど、それは落語家の稽古を知らないがための、げん言です。他の世界はいざ知らず、我々の稽古は、稽古をつけてくださる師匠こそ座布団を敷くものの、稽古をつけていただく者が座布団に座ることは許されません。その上、ネタの長さにもよりますが稽古時間は、一回当たり1時間はかかるのが普通です。ぼくはこの稽古の経験はないのですが、まとめて稽古をつける師匠もいらっしゃって、弟子を4〜5人並べて、端から順に稽古をつける場合もあるそうですから、こうなると必然的に4〜5時間座布団なしの正座が余儀なくされます。もちろん師匠の前での稽古でしびれを切らすわけにはいきませんから、普段の稽古でも座布団には座りません。これなら毛臑の毛根が磨滅するのも、合点がいくことでしょう。ここから、落語家にデブが少ないという結論を導くのは、自然なことでしょう。たしかにいくらかの例外こそあるものの、我々にデブはあまりいません。余りに太ると稽古に支障を来すからなのです。われながら惚れ惚れとする理路整然とした論理展開です。ところが、現実は旨くいきません。先述のように、師匠ともなると稽古の際座布団に座れるのですから、太っても一向に構わないのです。一生前座で終わる落語家はいないため、上の結論は破綻しているのです。ならば、どうして落語家にデブが少ないのでしょうか。どなたかご存知の方はいらっしゃいませんか。
《らん丈独演会》の告知:6月28日池袋演芸場午後6時半開演