新世紀となって最初の年は、落語界にとって散々な年となってしまいました。
先ず、松が取れないうちに桂三木助師匠が40代の若さでお亡くなりになってしまったのに始まり、4月には古今亭志ん朝門下の逸材、古今亭右朝師匠がガンのため52歳の若さで亡くなり、9月には林家彦六門下の重鎮、橘家文蔵師匠が心不全にして62歳というやはり早逝で、そして10月には皆さんご存知のように古今亭志ん朝師匠がお弟子さんの右朝師匠と同じガンによって、その命をわずか63歳にして奪われてしまったのでした。
これはたまたま偶々でしょうが、ミスタープロ野球と言われ、その栄光を一身に集めた長嶋茂雄巨人軍監督が公式戦最後の指揮を執ったのが、志ん朝師匠が亡くなった10月1日でしたから、丁度時代が変わりつつあるの感がひとしお一入胸に刻み付けられたのでした。
長嶋監督がミスタープロ野球ならば、志ん朝師匠は紛れもなくミスター落語を体現した方でした。葬儀は初めて落語協会葬として執り行われたことでも分かるように、その芸は言わずもがな、お人柄と相まって、落語界を背負って立つ方だっただけに、おかみさんやお弟子さんを始めとする一門の方々、そして同じ落語協会に属するもの、いいえ、協会も東西も関わりなく、同じ落語に携わるものとして、志ん朝師匠逝去の報を聞いたときの喪失感は計り知れないものがありました。
ぼくは古今亭の一門ではありませんが、同じ落語協会の会員として、志ん朝師匠とじか直に接する機会を得たものとして、志ん朝師匠の素晴らしさをどうお伝えすればいいのか、その言葉を持ち合わせないことを深く悲しむのです。とに角、ちょう朝さま様(志ん朝師匠のことを若手はよくこう呼んだものです)を悪く言う人をぼくは知りません。あれだけの方ですから、楽屋ではそっくり返っていればいいのです。なのに、一切そのそぶりを見せず、前座の名前をよく覚えては、名前で呼んでくれたものです。これが、呼ばれた前座にとっては無性に嬉しかったものです。「そうか、志ん朝師匠はぼくのことを覚えてくれたんだな。ようし、前座の修業は色々と辛いこともあるけど、もう少し頑張ってみよう」てな具合に、名前を覚えてくれたというただそれだけで、それほど嬉しかったものです。
ぼくがまだ前座だった頃、その師匠が楽屋入りすると一際強い緊張感に楽屋が包まれたのは、かの志ん朝師匠と立川談志師匠のお二人でした。楽屋がピーンと張り詰めたものです。談志師匠はとうに落語協会を去り、志ん朝師匠も鬼籍に入ってしまったのですから、多士済々と思われた落語界も意外と本格派の芸を正統に受け継いでいる者が少ないのに、暗澹とするのです。
けれど、志ん朝師匠は幸いなことに、さほど多くはないかわりに厳選された音源を残してくださいました。ヴィデオもあります。もちろん、お弟子さんもいらっしゃいます。
音源といえば、今はCDが便利ですが、落語を聞きながら眠りに就くのを習慣にしている方が、日本人には結構いらっしゃるのではないか。特に、ご年配の男性に。かく言う、弟子入りする前のぼくがまさ正しくそうでした。
今でも、もちろん落語を聞きながら寝たいのですが、なまじ落語をきくと、「いけね、寝ている場合じゃないや。稽古しなきゃ」と、おちおち寝ていられないので、なるべく避けていますが、志ん朝師匠が文字通り神様となってしまったからには、もう、安心して”朝様”の落語を聞きながら、眠りに就くことができます。だって、神様がいくら落語が上手くっても、あまりにも当然のことだからです。